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「焙煎」と「方法」

Posted: 2019.11.17 Category: ブログ

「焙煎」と「方法」イメージ1

店主です。


コーヒー業界(それがどういうもので、一体どのように存在しているのかは不明)において友人と呼べるような人がいない私ですが、畏友と呼べる存在は、僅かに数名います。先日そんな「畏友」の一人が、長い時間を過ごした大きなロースターの仕事を終え、そののちの少々の出来事を終え、自身のお店をはじめるという事で、わざわざ兵庫県から車で訪ねてみえました。


『方法とは、体系的なものだとか、実践に先立ってそれを方向づけるとか、まあ、方法とはこんなものだろうというイメージがあって、その漠たるイメージそのものを問題にはせずに、あるかないかで争っている。だけど、方法というのはこれまた非常に奇妙なもので、何とも薄気味の悪いもので、なんかこう漠然と誰もがくちにするわけですけど、しかし誰も方法ってやつはやっぱり見たことがない。また見えてしまうような方法には現実に働きかける力なんかありはしない。方法というのは機能するか機能しないかだけが問われるものであって、実践と同時にわれわれを貫き、それ以前やそれ以降にのんびりとあたりに漂ったりはしていない』(蓮實重彦)


その時は不安定に天気もぶれており、店内にはたまにやってくる過度な喧騒があり、全体的にあまり多くの時間を持つ事ができませんでした。それでも相対する着席の時間を終え、プロバット機の前に移動してわれわれが話した事は、(「焙煎の方法」ではなく)「焙煎」と「方法」についてでした。


『方法とは、それでわれわれが知的に武装する贅沢品じゃあなく、われわれを貫いて知的武装解除をする瞬間的な運動でしょう。だから、あるものが機能したときには、もちろん方法とはよびがたい奇妙な顔をしているはずです。動物じみた、凶暴的な顔をね。だからやっぱり方法ってものはあるものでもなかろうし、ないものでもなかろうし、たしかに確実にどっかで起こったり、いま起こりつつあるかもしれないけれど見えないものだ、というふうに考えるんです』(蓮實重彦)


焙煎というものにはどうも「方法」というものがあるらしい----喧しい場面を潜り抜けることでしか、私はいまの場所に来られなかったような記憶があります。しかし、あるいはそれは記憶違いなのかもしれません。いまにして面白いと思う個人的な興味の対象は、あらゆる出来事の方法そのものについてではなく、方法に対するアプローチの仕方ののちに、差異としてあらわれるものにあります。コーヒーの場面において、それはコーヒー豆そのものにではなく、むしろ事業の総体としてあらわれているようにも見えるのが不思議です。


私が最近考えているのはそんな事です。


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