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南泉の猫

Posted: 2018.11.20 Category: ブログ

南泉の猫イメージ1

南泉の猫

先日「然るお方」がご来店され、恐れ多くもまたぞろ田口護氏の話をしました。(昨今に門上武司氏がご来店された時にも同じような話をしていたので、御大にまつわる話自体はそれほど久しぶりではなかったのですけども)。しかしなぜかその方と話す時にだけ、私は田口護氏の事をほかの誰と話すときよりも鮮やかに思い出します。(そしてカフェバッハトレセン時代の初期頃、恩師と「禅問答」のような会話がいくつもあった事をまたゆっくり思い出していました。色々と書きたいですが、それはいつかの機会に譲ります)

ところで、禅問答といえば私が好きな問答の中に『南泉斬猫』という話があって、それはこういう話です。

以下、ゆっくり読んでみてください。





『南泉の弟子たちが、一匹の猫をはさんで「これはわれわれの猫だ」「いや、こちらの猫だ」と言い争っていた。そこへ現れた南泉和尚は、猫の首をつかむと、それを突き出していった。
「いまこのときに、仏の道にかなう言葉を発すれば猫は斬らない。さもなければ、この猫は斬って捨てる。さあ、どうだ!」
だが、だれも答えられる者はなかったので、猫を切り捨ててしまった。

夕刻になり高弟の趙州が帰ってくると、お前ならどう答えたかと迫った。すると趙州は、履いていた草履を頭に乗せ、すーっと部屋を出ていった。

「ああ、お前がいたならば、ワシも猫を斬らずにすんだのに・・・」

南泉は、そういって非常に残念がった。』





何度読み返しても、とても興味深い話です。

このストーリー自体はまったく荒唐無稽なものにも関わらず、われわれは人生においてこのような場面を、どこかで何度も見て来ているような感じがしないでしょうか。

たとえば人間生きていれば、嫌でも、どこにでも、それこそどんなレベルでもさまざまな主義主張というものにぶつかります。

しかし主義主張というものはとても不思議で、宗教戦争や民族紛争の例を挙げるまでもなく、猫の所有権を争うような稚拙なレベルでさえ、白熱するほど本質がなくなるという側面があります。

そのような場面において、なぜか役的に(あるいは状況的に)たまたま「上」であるというだけで、誰かが何かを諌めないといけない。。すべてが哀れで予定調和なそういう感じが、この話にはあります。

この話の場合、別に、頭に草履を乗せる事が「正解」なのではありません。ただ、滑稽にすら思えるほど不調和な出来事でしか形骸化したものの囲は破れないという、真理のようなものがあるので、私は折に触れてその事を思わずにいられません。そしてこういう身のずらし方が、けっこうな頻度で問われるのが「人生」だと思います。

最近忙しい中なぜか考えていたのはそんな事です。

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