店主です。
コーヒーについて考えるとき、私はそれをたとえば中庸という言葉について考えることと同じように思います。中庸というのは、『論語』で言及されるような意味での「中庸」の事で、決してフィフティフィフティというような意味ではありません。私にとって「中庸」はむしろ、定量化できないものに対して、どれだけバランスという概念を賭られるかという「覚悟」のようなものなのです。その意味で、私がコーヒーでやっている事をたった一言で言うなら「中庸」です。
『私はいつも、映画というのはかなり特殊な何かだと考えてきました。映像は無限の何かをさし示すものであると同時に、そのなにかに大いに制限を加えるものです。映像と音は、たえずゼロから無限大に移行するのです』(ジャン=リュック・ゴダール『映画史』)
今夏のある日、コクウ珈琲さんと大坊勝次さんについての話をしていた時、私はこのゴダールと同じ文章を『大坊珈琲店』の中に見た事を思い出しました。その中にも、ゼロと無限大について書かれていた箇所があったと記憶しています。美しい文章でした。
コーヒーについて語る事は困難です。私は『VIVO』誌上でコーヒーについて連載をしていますが、いつも何も語れていない気がします。それは気のせいではなく、そして、私の能力のせいばかりでもないと思います。
『私はいつも、引用ばかりしてきました。という事はつまり何も創出しなかったと言うことです。私はいつも、本で読んだり誰かから聞いたりした言葉をノートに書き取りそのノートを手がかりにして見つけた、いくつかの事柄を演出してきたのです。私は何も創出しなかったのです。私には創出することができないのです。私が映画を面白いと思うのは、映画には創出すべきものは何もないからです』(ジャン=リュック・ゴダール『映画史』)
昨夏のある日、コピーライターの小澤ナオヒトさんと対話した時に話したのですが、私は上のゴダールの文章の「映画」という箇所を「珈琲」と読むと、コーヒーについてようやくその一端を言い止めたような気持ちになります。私がコーヒーを面白いと思うのは、コーヒーには創出すべきものは何もないからです。