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この感覚の名前

Posted: 2025.04.10 Category: ブログ

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それは去年のいまごろなのか、一昨年のいまごろなのか、もしかしたらそれよりもっと前のいまごろなのかは忘れてしまいました。というか考えていたらそもそも「いまごろ」というわけでもなかったような気もするけれど、(自分はしょっちゅうそういうふうに時間感覚のことは忘れてしまうので)、自分がふだん関わりをもつことのない人たちと、知らず知らずのうちにやりとりが生まれていて、気がついたらそれがとても面白い可能性になっていた、みたいな話をここで書いたことがあったと思います。なぜいまここでふたたびそんなことを書いているのかというと、同じようにここ数ヶ月のうちに、ふだん自分が関わらないタイプの目上の人のたちと、いくつかのやりとりが生まれてそれが何か不思議というか、面白いのです。

「結局のところ、何に似ているんだと思いますか? 似ているというか、何に似せたいんだと思いますか? 本とかでなくてもいいし、音楽だとか、映画だとか、そういうものでもいいけれど。。」

ふだん自分が関わらないタイプの人たち二人から、自分が書いているものについて、はからずも同じタイミングでなにかを言われてしまったということもありました。もっとも、そのうちのひとりは実務的な意味がふくまれていたので、ある程度まで予想できたことだったのかもしれません。自分の書こうとしているものについて、書いているものについて、目指すところのことで、はて、なにを言えばいいのかな、うーん、やっぱりコーヒーこつの科学だとか言えばいいのかな、でも、コーヒーについて何か書いているというわけでもないし、そもそもコーヒーについて何か書きたいなどという思いがあるわけでもないし。。と、ころころと意識が流れていくうちに、いつのまにか答えていたのは、ジャン=リュック・ゴダール監督の『パッション』という、フランス映画のタイトルでした。どうしてそう答えたのか、自分でもよくわかりませんでしたが。。

ゴダールのこと(『パッション』の映画名)を答えてから、「そういえば」と気になって1980年代の彼の作品、あの用意周到かつ紛らわしい作品群を、なんとなくいくつか選んで、観ていました。「特に意味はない、もしくはそう装」われた画像と言葉のコラージュの、圧倒的な洪水のなかで自分が考えていたのは、もうひとりの「自分が関わらないタイプの目上の人」から言われたひとつのことばでした。あなたの興味関心は、コーヒーでもないし、カフェでもない。もちろん経営でもないし。本当は、文学なんでしょう?。。どういう意味なのか、よくわかりませんでした。

ゴダールは『パッション』のなかで、(彼の性質とはまったく違うタイトルを付した映画のなかで)、「文学」ということばでいえるのかどうかはわからないけれど、ことばとことばであらわさらるものの意味の限界にまで肉薄している感じがあります。繰り返しますが、それは文学ということばでいえるものなのかはわかりません。そもそも彼(ゴダール)にいわせれば、人類史(あるいは人文知)において、文学と呼べるものは、「ホメロスとセルバンテスとジョイスだけ」(『映画史』)であり、「あとはかろうじて、プルーストとフォークナー」(『映画史』)。それ以外のことばの構築物は、すべて「映画」なのです。もちろんシェイクスピアも「映画」だし、ことばでつくられた構築物という条件でわれわれがすぐに想到する十九世紀市民小説の最良のもの(バルザックやらドストエフスキーやら)も、すべて「映画」なのです。ゴダールのこの認識は、すさまじいと思います。およその文学批評家の妄言の薙ぎ倒しです。それは『パッション』をただの玄妙な不倫映画だとしか思えない人たちには、到底理解できない感覚です。

映画『パッション』なかで、ハンナとイザベルという二人の不倫相手をさして、主人公の映画監督はいつも「自分を解放する存在」と、「縛りつける存在」と言います。それぞれの存在をさして、そういうのです。そして、彼が作品を通じて映画を撮れない理由は、「物語が見つからないから」。「ことば」にある相反するふたつの要素、そして二人の女性にある「何かからの解放」と「何かへの縛りつけ」の両面は、主人公を苦しめますが、最後にありえないことが起こります。偶然によって導かれた二人の不倫相手が車に相乗りし、撮影の手がかりとなるアメリカへ発つ主人公を追いかけるのです。そこで「物語」が生まれます。

アメリカ行きの車に一向に乗ろうとしない主演女優に向けて、映画監督は何を言っても乗ろうとしない相手に、「そらとぶじゅうたんだよ」と言います。それを聞いて、相手が納得します。これが物語です。ことばにある、何かの解放と、何かの固定化、「どちらかでないといけない」が「両方とも」になった途端です。この感覚は、自分のなかにずっとあります。引き裂かれた論理が、アレゴリーによって優しくつつまれる瞬間です。そういう感覚のことなら、自分が人生で観たことのあるあらゆる映画のなかでもっとも美しいラストの記憶とともに、ずっとあるような気がするのです。

「この感覚」というのが「文学」なのであれば、そうであるとしかいえないのだろうな。。そんなことを八百津の山奥のコーヒー屋さんで、あたたかなコーヒーを両手にくるみながら、溶けていくような時間のなかで考えました。

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