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それぞれの思うコーヒー

Posted: 2024.09.13 Category: ブログ

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店主です。

コクウ珈琲の篠田さんと、ユイルコーヒーの竹中さんをゲストに迎え、カフェ・アダチでトークイベントが開催されました。自分にとって大先輩と大後輩(というのも不思議な文言だけども)にあたるおふたりにわざわざお越しいただくという、恐縮きわまりないかたちで会はすすみましたが。。内容として、イベントは最初に参加者さまに質問用紙を配って、寄せられたものを司会者にひろってもらい、3人で答えたり、かわしたり、脱線したり、ふくらませたりしながら、色々と好きにしゃべっていきました。

『いったい誰が、「質問は答えを呼びよせる」、などといったのですか? 辞書? 《質問》の項目には、質問は答えを要請するとは記されていません。(むしろ「辞書」だとかに象徴されるような)、「そうしたシステム」がはばをきかせているというだけのことです。わたしは「言葉」よりはむしろ、「言葉の音をともなった映像のシステム」をとります。つまり、「映画」をとります』(ゴダール)

『エクリチュールと差異』の著者はたしか「言明は単純な主語と述語の並置ではありえない」とくちにしたはずだったし、ほとんど同じようなことばとして、パリ・コニャック=ジェ通りに生まれのちにスイスに移った映画監督は、「私は映画をとる」といいました。自分はなにもいうことがないので、せいぜいこのあたりのことを誰がどんなふうにくちしていたか、記憶のなかからいくつか取り出せないか考えてみます。自分が過去に読んだり見聞きしたりしたことのなかから、そういうものが、どこかになかっただろうかと思いながら。。たとえば個人的に話していることばが面白いと思うひとに、鈴木俊隆というひとがいるのですが、彼は、こういうふうにくちにしました。「仏教という名前ですら、われわれの修行の汚点になる」。なんとなく、自分も同じことを思います。コーヒーという名前が、コーヒーという名前すら、(そのことはかなりきわどいとはいえ、もしそう呼ばれるものが自分が仕事でかかわっている出来事なり商品なりに向けられた呼称だとすれば)、なにかひどい汚点に感じるのです。

『禅宗では、「もし道でブッダに出会ったら、殺してしまえ」と言う。もし霊的な道を歩んでいる間に、制度化された仏教の凝り固まった考えや、硬直した戒律に出くわしたら、それからも自分を解放しなければならないということだ』(ユヴァル・ノア・ハラリ)

しかし、(あるいはこれはひどく困ったことかもしれませんが)、自分はそれを「解放」だとも思いませんでした。なぜなら、そもそもコーヒーは何ものにも縛られていないし、逆にいえば縛られている以外に、抜け出す先などありえないからです。かくいうわたしも、昔はなにかがあると思っていました。コーヒーのはてには、コーヒーをやっていれば、どこかのなにかに出会うような気がしていたのです。あるいは、どこかにいけるのではないかという気がしていました。しかし実際そこには、「ブッダのいる道」(ハラリ)すらなかったし、こういってよければ、媒介のようなものがいつも行き止まりを演出したのです。媒介といえば、ルソーは『告白』のなかで、「それを抹殺する」というようなことばをくちにしました。かなりつよい調子で、はげしい調子でくちしました。

『いったい誰が、「質問は答えを呼びよせる」、などといったのですか? 辞書? 《質問》の項目には、質問は答えを要請するとは記されていません。「そうしたシステム」がはばをきかせているというだけのことです』

コーヒーについて、ひとつなにかをいわなければならないとしたら、「そうしたシステムがはばをきかせているというだけ」(ゴダール)なら、わたしもルソーと同じく、「媒介の抹殺」ということばを選びます。それそのものの表現なのか、その関係性を言おうとしているかはともかくとして、おそらくそういうことばを選びます。そうやって選ぼうと思っていたはずなのに、たまたまこのタイミングで手にした本、自分がコーヒーに関してもっとも感覚的に影響を受けているはずの『コーヒーこつの科学』の著者が、目下もっとも新しい本のあとがきのなかで

「自分は(コーヒーで遊んできたのではなく)、コーヒーに遊んでもらってきた」

と、くちにすることばを見つけて、誰かにぶつけようとする勢いで火を放っていた手榴弾で、間違って自分を爆砕したような気持ちになりました。「自分は、コーヒーに遊んでもらってきた」。これはおそらく、主体的なコーヒーの遊戯に向けた、完璧なアンサーなのです。コーヒーに関して、個人的なものとして、自分はこの感覚よりも近い何かを思うことができません。。自分はコーヒーになにかをしようとしたり、コーヒーでなにかをしようとしたことは、(もしかしたらほんの何回かはあったのかもしれないけれど)、あるいはなにかができたことは、おそらくいままでに一度もありませんでした。わめきながら、ぶうぶういいながら、行き過ぎると無視されたり、たまに適当にあたまをなでられるなどして、自分はたしかに、ずっとずっと、コーヒーに遊んでもらってきたのです。

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