店主です。
ほとんど地元だと言って差し支えない場所で学ぶ学生たちから、わたしがいまの仕事に就業するまでの経緯と、現在のあらましを教えて欲しいという依頼がありました。こういうことは、はじめてのことではありません。記憶が正しければ、同じ学び舎から年数を連続してそのような依頼を受け取っているので、定例の感すらあるといっていい出来事なのかもしれません。もちろん教諭の方を通してですが、わたしはいつもそういう依頼があった場合、自分にとって「いかに学校がつまらなかったか」について話しています。「どれほど学校がつまらなかったか」について話しています。なので、ほとんどめちゃくちゃなことをしています。
自分がそれをどう思うかはともかく、わたしはなんとなくお決まりになっているような内容を返答したあとで、いったいなぜそれほどまで「学校がつまらなかった」のだろうかと考えていました。理由はかなり具体的なものを用意して回答をしたはずなのに、そこに何かの足りなさを感じていたのです。意味そのものというよりは、自身の立場と過去との関係性を思い直したものからくる、何かの不足の思いだったのかもしれません。抽象的ですが、そういう言い方でしかいえません。そしてその答えは、最近たまたま読んでいたアメリカの著名な建築家の自叙伝部の一説に記されているような気がしました。それは、こういうものです。
「先生たちは、『これらの式を暗記しなさい』と言う。だから俺は『式が載っている本を持っていれば、暗記する必要なんてないじゃないか』って答えたんだ。すると『君は医者になりたいんだろう? 医学というのは暗記が全てだぞ』と言われた。馬鹿馬鹿しくなって医者になるのはやめてしまったよ」(ジョー・サルビア)
わたしもかつてこれとまったく同じようなことを、引用で言われているのと変わらない関係性の中に投げ入れことがありました。もちろん、このようなうまい言い方もできなかったし、医学生の時にそれを言ったわけではありません。というか、わたしは人生で医学生だった時期など一度もないので、素地からしてまるで違う内容だと言われたらそれまでのことなのかもしれません。わたしにはいまもってよくわからないことなのですが、いったいなぜすでにどこかにたくさん書いてあることを、(多くは監視された状態などが用意された上で)、それを言えだとか、ここに書けという風に誰かが決めたタイミングで思い出してくちにしたり、思い出して書いたりしなければならないのでしょうか? しかし優秀な医学生だった人間がその後アメリカを代表するような建築家になった過程でくちにしたことと、日本の地方都市でただ考査が嫌だったという程度で同じことを口にしていた人間の発言は、同じであっても、同じこととも思えません。わたしは、少なくとも幼稚園児のころにはそういう文句を口にしていたことはありませんでした。ジョー・サルビアが大学の医学部で感じたことを、幼稚園児よりはあとの、大学よりはもう少し手前に(能力の限界で)感じただけのことで、もし意識していなくてそれが簡単に出来ていたら、それほど早くの段階でそんなあほなことを嘯いてる暇もなかったのかもしれません。これは、小さな違いです。ちょっとの違いです。しかし、「ちょっとの違い、それが困る」(中野重治)という意味で、これは本当に困ったことです。
「僕は、これもひとり合点なのだが、大切なことならば誤解されてもかまわないと思っている。大切なことは誰にでも理解されるというわけにも行かないもので、それでもその大切なことはそれをまともに聞く耳をいつでも持っている。だいいち、誤解されない、ねじまげられない、あくどくて喰ってかかられないような大切なことなぞいくらもありはしないのだ。ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない」(中野重治)
わたしはいつも、コーヒーにも何か同じような要素がある気がします。なんとなく、同じ要素がある気がします。人はよく(でもないかもしれませんが)「珈琲」やら「焙煎」やらをめぐって(謎の)悶着をしていますが、ほとんどの場合これらは「ちょっとの違い」をめぐっています。まったくもって、みっともないくらい小さな違いをめぐっています。そして、このじつに小さな違いが、当人たちにとっては「大問題」です。形而上学的(類比統一的)な場所に放り出されるとまったくどうでも良い、死ぬほどどうでも良いという意味に抗いを見せるようなこの「それが困る」という声は、ある意味ではじつに「コーヒー」的です。そして呻き声にも近いこれらの声で何か訴えようとする人たちの瞳孔の開いた様子は、一方では「あくどくて喰ってかかられない」だろうと、本人たちが(完全に)開き直っている節もある姿なのです。
ともかく、わたしはこの「ちょっとの違い」という何より「困ったもの」に関して、昨秋からずっと同じことを考えていました。それは珈琲のことや、焙煎のことではありません。ある場所から人が去ったあとのこと、それに関する内容だったように記憶しています。いま思えばおかしなことですが、相似形を描いている出来事が、身の周りにふたつみっつほど連続して起こったのです。おかしな時間でした。人にとってどうして物事は、特異に思えることほど同時に多発してしまうのでしょうか? しかしこれらも結局、いままで見てきたものと変わらないことでしょうか? わたしは同じだと思いましたが、あきらかに似ていても、ひとつひとつに「ちょっとの違い」があるのです。パターンは似ていたとしても、どれひとつとして同じものはありません。わたしは導かれるようにして、「狭量」のことと、ある「気分」のことを考えていました。しかしそれはまったくいまも答えの形にならないまま、無造作に放り出されています。
とはいえ、これについては、答えが出ても出なくてもほとんど同じことかもしれません。もしそこに何かがあるとしたら、おそろしく小さな「ちょっとの違い」だけなのです。
それが一番困るのですが。