何度か書いていることかもしれませんが、自分とは事業規模も違えば、仕事のやり方も大きく異なる人と接する機会が少しずつ増えているのですが、そのたびに「なぜ?」と思うことが多い日々を過ごしています。論理的にはほとんど説明がつかないし、理性を働かせてもまるで理解できない物事の機序に、私はしょっちゅう首をかしげるばかりです。どうにも論理とは違う場所で、物事が動いているというふうに感じます。しかし、最近になってようやく、その背景には「ハイコンテクストな場面におけるイニシアチブの握り方」という目に見えない無意識が含まれているのだと、人からそれとなくほのめかされて、驚きました。具体的な事例を挙げて説明されるまで、私はそれらのことをまるで理解できていなかったのです。
そんな話の中で、真っ先に思い出したのはクロード・レヴィ=ストロースのことです。彼がつぶさに眺め、ことばの連なりで緻密に書き残した未開社会の構図は、もっとも浅い形で「原始的な」あるいは「未発達の社会」だと思われがちですが、実際にはそうではありませんでした。そこではわれわれには完全な理解が難しいほどのハイコンテクストなコミュニケーションの複雑さ、多義性、暗示性が、人々とその関係を幾何学的に動かしていることが示されていたのです。たとえば、先進社会の中でも、もっとも強力かつ先進的な領域を想像してみましよう。衣服として植物の葉などを裸体に身につけている人など一人もいない、超高層ビルの、やたらややこしいエレベーターのボタンの先の会議室の中、国家が稼ぐようなお金を動かしている人たちの姿などです。シリコンバレーに見られるような圧倒的な政治的イニシアチブ――結局のところこれらは、族長の観察眼に依存し、その場の空気の流れが物事の構図のすべてを決めるという、狩猟経済などに通じる構造を持っています。この事実は、人間というものはいくらコンテクストが変わっても、視線や表情や声色、全体性や声なき声、空気の流れやその積み重ねを超えるようなコミュニケーションを見出せていないということの、ゆるやかな証明にもつながっているわけです。そして、それらは「奥まれば奥まるほど」(夏目漱石)、ますます見えなくなり、直接言うことのできない、代替不可能かつ強大な力を持ってしまいます。
アメリカのハリエット・メッツ・ノーブルという女性は、五度の結婚を経験していますが、驚くべきことに彼女の夫となった五人の男性は、いずれも自ら命を絶ちました。その中にはジェシー・リバモアも含まれています。私は最近までこの事実を知りませんでしたが、彼の遺書には、妻への感謝の言葉が記されていたそうです。あまりにも度がすぎたハイコンテクストのうちには、私たちには到底理解できない、何かのニュアンスが確実に潜んでいるのです。それは、フョードル・ドストエフスキーが語った「人類全体を愛するのはたやすいが、目の前のたった一人を正しく理解するのはほとんど不可能だ」という言葉のように、完璧なまでに理屈を超えた領域に属するものです。
この最後の言葉を借りれば、私は「人類」という部分に「コーヒー」という言葉を、「一人」という部分に「一杯」という言葉をあてはめたくなります。そうすると、それがそのまま自分のしている仕事に重なってくるのです。どのようなコンテクストの中にあっても、コーヒーという営為は、永久に、完全な理解に至るということはありえないでしょう。どれだけ時が重ねられても、永久に、完全な理解に至るということはありえないでしょう。すべてが族長の表情から始まり、そこに戻って終わる――そんなレヴィ=ストロース的な世界に、私たちはそんなものはとうに後にしたと決めつけながら、どれだけやっても追いつけないまま、ただなんとなく一方的に何かを「わかったつもり」になっているのです。このことの「わけのわからなさ」に、私はやはり深く首をかしげるばかりです。
