カフェ・アダチ ロゴ

 

店舗情報

11:00 – 17:30 L.O. 17:00
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

駐車場20台

© Cafe Adachi

ブログ

Blog

フェルナン・ブローデルの読後

Posted: 2024.12.15 Category: ブログ

フェルナン・ブローデルの読後イメージ1

店主です。

一冊の本を読んだあとで自分でも気がつかないうちに、おそらくたぶんそれによってもたらされたのだろうなと思える読後感が続いている、みたいなことがしばしばあって、(もちろんそれはかならずしも「本」という体裁をとってばかりいるわけではないので、たんに「ことば」だとかいうふうに言ったほうが良いのかもしれないけれど)、先日「アナール学派」(そういうことばの使い方に対してきわめて批評性があったのに、ヌーヴェルバーグとかいうのと同じようにまったく真逆のことばの使われ方でレッテルを貼られてしまっているひとたち)の本、もう少し具体的にいえば、フェルナン・ブローデルの本を、たまたまある鋭敏なフランス人映画作家の引用から読んでみたあとなど、その通りとしかいいようのない読後感(ずっと続くかるい酔いのようなふわふわした感じ)があったわけです。(そういう気分が何ヶ月かずっとあって)、個人的な酩酊に重なるように、同じ時期にわれわれのやっている事業地市内にすこぶる雰囲気の良いクラフトビールの会社が立ち上がる機会があって、「カフェ・アダチさんのコーヒー豆を使って、美味しいビールを作りたいんです」という素敵な依頼もあったので、スタッフの丁寧な運転で立ち上がったばかりの熱気ある工房におじゃまし、味見としょうしてたらふくビールを頂戴し、ふだんそんな機会もあまりないためにかなんとなく酔いがまわってきて、「そういえば、コーヒーと、クラフトビールって、けっこう似ているところがありますよね」という話を耳に入れながら、世界各国からやって来ていたかぐわしい麦芽の袋が積み上がった姿の倉庫をぼんやりと眺めていたところ、かくじつに酔っ払ってしまったのもあって、「あれ? コーヒー? そういえば、コーヒーって、なんのことだっけ?」などというわけのわからないゲシュタルト崩壊が起こってしまうわけです。

コーヒーは、たしか、飲み物だったはずです。なんだか表面が黒い色?をした感じの。。まわらないあたまで、わたしはかろうじてそんなことを思います。もっともそういう概念とは違う、どこか違う熱量をこめているひとも存在する気がしないでもないけれど。。それでもわたしの「正気」が正しければ、コーヒーはたしか、人間の飲み物だった気がします。それに、自分はそんなときにくわえる感想にも、どこか「例の読後感」を引きずっていました。コーヒーは、フェルナン・ブローデルが産業革命について述べたのと同じように、「一つ一つを切り離して理解しようとすれば、論争の迷路にはまり込み」、かと言って「それを寄せ集めたからといって、結局全体像がつかめるわけではない」なにかだというふうに。結局自分はコーヒーのことはよくわからないけれど、彼はこうも言いました。『みな「市場経済」について語っているのではなくて、「市場」と「経済」について語っている』(ブローデル)。一瞬だけ酔いがさめた気がします。このワンセンテンスに、いったいどれほどの批評が込められているのでしょうか?

ワンセンテンスの暴力という意味では、たとえばシェイクスピアのような人がいます。彼がぽろりとくちにしているいくつかのことばたち(きれいはきたないきたないはきれい)などは、それに挑むために、学究的な一生を費やすひとがいるようなことばです。わたしはこのあいだある小難しい本(それはとても、とても、難しい本で、もうそういうものを読むのにもほとほと嫌気がさしてきているけれども、苦虫をかんだ表情などしてまだそんな感じのものを読んでいたわけです)の中に書いてあった『ニーチェのくちにした「善悪の彼岸」ということばには、マルクスが資本論のなかでくちにしていた「自然史的立場」ということばが照応している』という文章を読んで、いくらか衝撃を受けていたのを思い出しました。衝撃というか、なんという洞察力だと思いましたが、こういうフレーズもおそらく、学術的なアプローチをすれば一生を費やすほどの困難をふくんでいます。そこには非対称的なものの対称性の問題、あるいは肯定されながら否定し、否定しながら肯定されるものごとの問題があると思います。あるいは、「構図と霊性」(小林秀雄)の問題があります。

『小林秀雄から「批評」がはじまったといいうるとすれば、まさに彼が(カントの言うところの)「視霊者の夢」(もしくはユングの言うところの「集合無意識)を、肯定しながら否定し、あるいは否定することによって肯定するという、戦略的言説をとらねばならなかったからである』(『懐疑的に語られた夢』)

戦略かどうかはわかりません。しかしコーヒーにも、これと同じ傾向のわたりかたがあると、わたしは思います。「肯定しながら否定し」、あるいは「否定することによって肯定する」というわたりかたです。ある意味、一生を費やすほどの困難です。ただ最近、自分は、もはやこういうかたちの「困難」にも、いっさいの興味がなくなってしまいました。。もう、どっちでも良い気がするし、(もしその言い方がディーセントでなければ)、どっちかで良い気がするのです。どうしてだろうと考えても、なにも理由も浮かんできませんが。。

もしかしたら批評だとかいうのにすっかりあきてしまったのか、解釈の対象というものごとのとらえかたに、とうとう倦んでしまったのか。。それとは違うなにか、ようやくことばで言えそうな何かもいささか気持ちが悪くて、酔っ払って仕事場に戻り、使いものにならない頭を捻りながら、机にうつ伏せたまま自分が考えたのはそんなことでした。

関連記事

Categories

Latest Posts

Archives

連載「コーヒーのある時間」

← 戻る