いくらかの知り合いの店で、商売とお金に関する洞察をくわえた感想を聞くタイミングがありました。それを聞きながら、いくつかのことを考えていたので、今日はそのことを書きます。いくつかのことというか、資本のこと。。あらためて言うまでもなく、あらゆる商いには何らかの資本が必要です。けれども、簡単な想像から離れてつぶさにみると、われわれの現実の前に存在しているのは、必ずしもわかりやすい「お金」だけではないことがわかります。現代の経営論では、人的資本、社会資本、金融資本という三つの資本のことがよく語られており、どれも重要な要素ですが、それだけでは説明できない部分があります。いわゆるそれは、「文化資本」です。
人的資本とは、その人が持っている技術や経験、知識、感性といった力です。カフェのことでいえば、たとえばコーヒーに対する向き合い方や、空間を整えるセンス、接客トーンなどにあらわれるものです。こうしたものは、日々の積み重ねと不断の努力によって磨かれていきます。すぐに得られるものではありませんが、一人の人間に深く根を張る力です。
社会資本は、人と人との関係性から生まれるものです。信頼やつながり、紹介や助け合いというものには、小さなお店や個人の商いほど多く支えられています。「また来たよ」と言ってくれる常連客や、「あの人がいいと言っていたから来てみた」という紹介の言葉は、商いをやさしく後押ししてくれる追い風のようなものです。
金融資本は、言うまでもなく、商売に必要な資金や設備のことです。仕入れや家賃、スタッフの給与など、具体的な支出を支えるものとして欠かせません。ただ、金融資本はもっとも外から調達しやすい資本でもあります。借りたり、集めたりと、工夫次第でなんとかなる部分があります。
そして、ここからが本題ですが、ピエール・ブルデューの言う「文化資本」は、これらとはまったく異なる性質を持っています。彼は、文化資本を「教育や教養、美意識、話し方や態度といった、社会的なふるまいに影響する不可視の資産」として定義しました。それは、お金では買えないもの、たとえば親から子へ、あるいは地域や共同体の中で、知らず知らずに継承されていくようなものです。この文化資本という視点を、商売の世界に持ち込んでみるとどうなるでしょうか。
たとえば、一つのカフェに入ったとき、「なんとなく落ち着く」「ここには何かがある」と感じることがあります。それは内側の美しさだけでなく、言葉にならない空気やリズム、時間の流れ方のようなものです。そこには、その場所をつくった人の思想や美意識がにじんでいます。それこそが、商いにおける文化資本の現れです。このあたりのことを話していると、私はイタリアのある服飾関係の会社のことをよく思い出します。
自分は、経営者としては、多くのことをブルネロ・クチネリから学びました。態度や考え方、思考のあきらかな透徹さに刮目しながら、ブルネロ・クチネリから学びました。彼は、服とは単なるファッションではなく、人間の尊厳と生き方を包むものであると考えています。ソロメオという村を再生し、職人たちの暮らしを守りながら、製品にも精神性を宿らせていく。その営みは、売上を追うことよりも、文化を育てることに重きを置いたものです。こうした姿勢には、ブルデュー的な意味での「ハビトゥス(habitus)」の重層性も感じられます。つまり、ある人が自然に選ぶふるまいや美意識の背後には、長い時間をかけて身体化された文化の履歴があるということです。クチネリの服は、そのような履歴が静かに織り込まれているがゆえに、流行とは異なる深い共鳴を生むのでしょう。
小さな商いにおいても、この文化資本の考え方はとても有効です。仕入れるコーヒー豆の背景や、流れている音楽、手書きのメニュー、言葉づかいといったものが、「何気ないようでいて譲れないもの」になったとき、その店には確かな芯が通り始めます。そして不思議なことに、そうした文化資本は、金融資本ほど目立たないのに、長期的には最も人を惹きつけ、離れがたい場所をつくっていく予感が宿ります。文化資本は、借りることも、急に増やすこともできません。あらゆる意味で、取り繕うこともできません。けれども、日々考え、感じ、選び、積み重ねることで、確かに形成されていきます。むしろ、今の時代だからこそ、トレンドに流されずに「自分にとっての大切な様式」を見つめ直すこと、「売れるからやる」のではなく、「美しいから続ける」「意味があるから守る」、そういった価値判断を見つける行為が、文化資本の根幹ともいえるわけです。
『世間というのは、厳しくもあるし、また暖かくもある。そのことを、昔の人は「目明き千人めくら千人」という言葉であらわした。いい得て妙である。世間にはめくらの面もたくさんある。だから、いいかげんな仕事をやっていいかげんにすごすことも、時には見逃されて過ぎ去ってしまうこともある。つまりひろい世間には、それだけの包容力があるというわけだが、しかしこれになれて世間をあまく見、馬鹿にしたならば、やがては目明きの面にゆき当たって、身のしまるような厳しい思いをしなければならなくなる。また、いい考えを持ち、真剣な努力を重ねても、なかなかにこれが世間に認められないときがある。そんなときには、ともすると世間が冷たく感じられ、自分は孤独だと考え、希望を失いがちとなる。だから悲観することはない。めくらが千人いれば、目明きもまた千人いるのである。そこに、世間の思わぬ暖かさが潜んでいる。いずれにしても、世間は厳しくもあり、暖かくもある。だから、世間に対しては、いつも謙虚さを忘れず、また希望を失わず、着実に力強く自分の道を歩むように心がけたいものである』(『道をひらく』)
本来商いに求められるのは、単なる効率や拡大ではなく、この第四の資本ともいうべき、文化資本を育てる営為ではないでしょうか。そこには競争や勝敗を超えた、持続と共鳴の可能性が広がっています。進歩史観的な意味をこえた、ゆるやかかつ確かな、持続と共鳴の可能性が広がっていると私は思います。
