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企みと企て

Posted: 2024.01.25 Category: ブログ

企みと企てイメージ1

店主です。

マーティン・スコセッシの29作目の映画を観ていて、考えたことがありました。考えたことというか、これはその時にたまたま近くにいた知人と話したことと、その後に思ったことの覚書です。といってもすべてがただの記憶でしかないので、いささか正確さを欠いた体験の記録かもしれませんが、一応書いてみようと思いました。

ちょうどそのころ、わたしたちの事業のまわりではうまくいかなくなったことがあったので、そのあたりのことをその人と話したと思います。わたしたちの事業のまわりで、少しずつうまくいかなくなったこと。より正確に言おうとすれば、自分たちのくわだてやたくらみがうまくいかなくなったというよりは、自分たちのたくらみやくわだてをめぐるまわりの出来事が、きれいにひっくり返ったような感じでした。

冒頭の映画では、因縁の深いギャング同士がある領地をめぐって、それこそとても細かな制約やルール、駆け引きをめぐり、さまざまな人間心理を含んだおそろしく繊細緻密な出来事が進行していくのですが、最後に南北戦争が起こり、土地建物がすべてなくなってしまいます。自分たちの想定していたものとはまったく違う外部のちからによって、瑣末な諍いがすべて消し飛んでしまう。みな茫然として終わりを迎える、そういう作品です。しかし、これはたんに歴史的事実に則ったフィクションという以上の、強い印象がないでしょうか? 人は現実に出来事に向き合うとき、なにかをあてにしていることが多いものです。あてにしているものは過去と呼ばれるものなのか、イメージと呼ばれるものなのか、意志とか呼ばれるものなのか、それがなんなのかよくわかりませんが、なにかをあてにしていることが多いものです。映画では、それは「縄張り」として置かれていました。個人で事業などをやっていると、このあたりの拠り所をめぐる精神的な逡巡は、あまりに強力なものです。しかし、現実の商売では、そこに「生産」の問題があります、自分のイメージや過去とは歴然と違った形で、はっきりとした「生産」の問題があります。つまり、自己生産能力の問題です。事業をやる上で必要なのは、どちらかといえば実際性のあるなにかを生産する能力というよりは、自分自身を生産しようとする能力なのであって、このことはよく見ようとしても揺るぎないなにかというよりは、どちらかといえばぼんやりと見えるようなものに思えます。

そういう条件で立ち上がりをみせて、それでもなにか商売的に形にしようとする時に、人はなにをあてにしたり、支えにしたりすれば良いのでしょうか? 決死の思いとか、そういうことなのでしょうか? あるいはそれとは正反対のこととして、人当たりの良さなどに向かって活路が語られることもあります。これは本当にそうでしょうか? 個人的には、少し違うと思います。なぜなら、自分に何が足りているか足りていないかを判断するのは、他人がなにを言おうと結局は自分自身だからです。だから、事業をやる上で強い人というのは、自分に何が足りないかわかっていて、それに気づけるというタイプの人なのです。そこから導き出されることとして、だから、理想とプライドが高い人というのは、相当きついのではないか。自分が折れるのが苦手だし、自分を戒めるのが得手ではないからです。

『変わるのは難しい。何であれ、変わるのは難しい。だが学び、成長し、進歩するためには変わらなければならない』(レイ・ダリオ)

ちなみに、わたしがいくらか上の場所で書いた自己生産ということば、ただのセルフプロデュースということばの言い換えのものです。これについては上手く書けないので、こういう書き方で終わるよりほかなく思うものです。

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