カフェ・アダチ ロゴ

 

店舗情報

11:00 – 17:30 L.O. 17:00
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

駐車場20台

© Cafe Adachi

ブログ

Blog

個人を超えた普遍性とか、永遠のようなもの

Posted: 2025.04.25 Category: ブログ

個人を超えた普遍性とか、永遠のようなものイメージ1

桜の散りはじめのころ、久しぶりにやまいもブックスさんのセレクトした古本を選ぶ機会がありました。そういえばたしか以前どこかで、梨木香歩氏の『雪と珊瑚と』(本当に良い小説です)のことを書いたと思うのですが、自分は机に並べられた未読の同じ著者の本を手にしたとき、過去に読んだ本のなかにあった「環境を切り離した個性というのは存在しないと思うし、環境を切り離した表現というのも存在しない」という感じのことを、なんとなく思い出していました。実際、そのとき購入した同じ著者の『からくりからくさ』という作品のなかにもそのようなことが書いてあったし、あらためて自分はひとが置かれた環境だとか、それについてくる個性だとかについて思いを馳せる以外になかったのです。

『私はこの土地で採れる作物のような、そこの土から湧いてきたような織物が好きなの。取り立てて、作り手が自分を主張することのない、その土地の紬ってことでくくられてしまう、でも、見る人が見れば、ああ、これはだれだれの作品、っていうようにわかってしまう、出そうとしてもしなくても、どうしても出てしまう個性、みたいなのが好きなの。自分を、はなっから念頭にいれず、それでもどうしてもこぼれ落ちる、個性のようなものが(…)何もないところにでっちあげる、奇をてらった個性ではなくてね』(『からくりからくさ』)

主人公の女性は染織の修行をしており、庭の草木で糸を染めて機を織る日々を送っていますが、ストーリーは彼女たちの生業である染織のように、様々な要素が複雑に絡み合いながら紡がれていきます。そしてこういう発言のなかで、物語のなかの人間関係もいくらか試されていきます。たとえば、この発言を耳にした芸術家ふうの学生のひとりは、非常につよく反発します。言っていることはわかるけれども、場所だとか環境だとかではなく、ただ存在するためにどうしても「個を起因とした表現」が必要な人もいるのだ、と。そしてそのことは自分の存在にかかわるような見解なので、ごまかしや妥協は決してできないのだ、と。

『そういう人たちが自己表現していくことを、私は否定しない。ただ、平凡な、例えば植物の蔓の連続模様が、世界中でいろんなパターンに落ち着きながら無名の女性たちに営々と染められ続けてたりするのをみると、ときどき、個人を越えた普遍性とか、永遠のようなものを、彼女らは自分では気づかずに目指してたんじゃないかと思うの』(同上)

織物のことはわからないこともあります。しかし、自分はコーヒーは「表現」とかとはもっとも無縁のなにかだと思っていますが、それは同時にこの本のなかでいわれるように、ギリシャ時代からの葡萄蔓や唐草・蔦などの模様が、知らず知らずのうちに織物表現をする人たちの無意識のなかにあり、いつのまにか世界中の人たちが(個人の表現とは別に)現在まで営々とどこかその永遠的なパターンを無意識のうちに目指し続けていたのではないかということ、そしてそれと同じなにかのニュアンスを、コーヒーのなかに見ていたわけではなかった気がします。そうではないのです。それに、コーヒーに「普遍」というものがあるのかどうか、わたしにはよくわかりません。むしろ「ない」という気がしますが、同時にそれは「コーヒーには表現がある」ということともやはり圧倒的に無縁な気がするわけです。

『流れをただ見つめていたら、そのうち流されているものも落ち着くところに落ち着くわ。橋の上で見ていても、流れているものは、あっというまに見えなくなるから、それと一緒に流れていくのよ、そして目を開けて、それが沈まないように、手を離さないでいて。落ち着くまで』(同上)

むしろこういう感覚のほうが、自分が職業的に接する食品とその液体に関しては、どこか近い印象があります。それは知性ではないのかもしれません。たとえば知性で受け取ってしまったら、この「流れ」でいわれているものも、おそらくただの「教訓」だとかいうことばに重ねられて終わってしまうでしょう。でも、そうではないのです。自分は、そういうものではないなにかを、コーヒーに感じます。ひとと話したり、なにかを考えたりするときも、そういうものではないなにかを、コーヒーに感じています。

関連記事

Categories

Latest Posts

Archives

連載「コーヒーのある時間」

← 戻る