店主です。
この季節になると、仕事の必要性に駆られて、「コーヒーの歴史」について、(どちらかといえばそれは「コーヒーの歴史」ではなくて、「コーヒー」と「歴史」、かもしれないけれども)、いくらかの本の読み直しをしています。そうはいっても結局そんなことはいつもしていることなのだし、あるいはいつもしていると意識すらしていないことなので、平常時よりもほんの少しだけ意識的にそうしているだとか、それくらいのことかもしれないのですが。。そんなわけで、「アナール学派」(そういうことばの使い方に対してきわめて批評性があったのに、ポスト構造主義とかいうのと同じようにまったく真逆のことばの使われ方でレッテルを貼られてしまっているひとたち)のいくらかの本を読んでいたのですが。。その中に、いつもよりいくらか意識する文章を見つけていました。
「マルクスは資本論のなかで「資本主義」ということばを一度も使ったことはないし、なんなら生涯をかけてそんなことばをくちにしたことはない」。1967年にフェルナン・ブローデルがそのようにくちにしたとき、このことばの意味は、世の中にまったく理解されませんでした。本当に、まったく理解されませんでした。。せいぜい「歴史的な事実」として、「本当かな?」などいうふうにページをめくってそれを確かめる緻密なひとがいただとか、そんな程度の作業しかありませんでした。「資本論の著者」といえば「資本主義の教義を明らかにした」などというふうに、現在ほとんどのひとが簡単にくちにするのでしょうが、繰り返しますがマルクスは資本主義などということばをくちにしたことはないのです。『資本論』(1867年)から、ブローデルがこのことを指摘する1967年まで(この年には、『グラマトロジーについて』も出版されている。。)のちょうどぴったり100年ものあいだ、何の批評性もないまま、「資本論とは、資本主義の教義について書かれており。。」だとかいう言説が、なにかの見本のようにいわれていたのです。このことの意味が分かるでしょうか。繰り返しますが、マルクスは資本主義などということばをくちにしたことはないのです。ページをめくってそれを確かめるとかいう作業ではないところで。。このことばの意味がわかるひとはいるのでしょうか?
『年号や人名の暗記など、私は重視しない。私は物語が好きだ。具体的な物語で、よく書きこまれているのがいい』(ブローデル)
たとえば、ジャン=リュック・ゴダールというひとはわかっていました。実際に『映画史』以降のゴダールは、(歴史というものに関して)ずっとヘーゲルからブローデルのよみかえをやっているように見えるのです。引用の多さだけではなくて、わたしにはそのように見えるのです。それは「ことば」があらわれてしまうことで、それ以前の状態には戻れない感覚のこと。。あるいは、対象ははっきりとするのに、かえってそのことそのものを根底から疑えなくしてしまうなにかのことです。なんとか主義だとかかんとか主義だとかの構図づくりしかできないひとたちは、このことの意味をもう少し真剣に考えてみたほうが良いのかもしれません。。ちなみに「ことば」を「人間の生」とよみかえると、このことは死生観までふくめて、後期のゴダールの作品に貫かれているなにかにつながります。
『時間だけが拒絶されながら死の門前に立つ。ちょうどその時、尽きることのない良心が、容赦なく私を非難する。良心は嘘をつき、時間は運命を断罪する。弱々しい悔恨が、私の目を曇らせる。だが活気により私は憩いを見出し、荒れ狂う海を逃れ、静穏な永遠にあらゆる憂悶をつなぐ』(エミリー・ブロンテ)
コーヒーのことでいえば、わたしは(以前も書きましたが)スペシャルティなんとかだというなにかに(この季節に決まって)某かのひとびとに絡まれることになるのですが。。結局それに対する優れた批判さえ、ほとんどどうでも良いことに思えます。なぜなら、スペシャルティなんとかに対するもっともよく出来た批判は、(ことばにおいて)「素材の趣味性や、洗練度に依存している」(デリダ)という点で、批判の対象とまったく同じ構造に陥っているからです。
『いかに偉大な誠実さでも、時の歩みには無力だ。何一つ、誰一人、甦らせられない。それでも、誠実さしか解決はない』(ゴダール)
自分は「物語」が好きです。こういう「物語」が好きです。よく書き込まれているかどうかまで判別の広がる気持ちはありませんが。。素材集めの趣味性や洗練度も良いのですが、どちらかといえばぶつぶついいながら考えたり、つくったりする方が好きなのです。