店主です。
コーヒーをひとに教えている(それがどういうものかは謎)と、過去にすでにしていた出来事が不思議な形で自分の肩をたたいて来たり、表情を変えてやあこんにちは、などと声をかけて来たりするような、なんとも言えないおかしさに出会うことがあります。わたしはかすかに首をかしげて、伏目がちに小さくわらいながら、なんならこういうことは、結局毎度取るに足らないことなんだよなというふうにも思っていて、それでも学びの場が終わりをみせて生徒さん(というものがどういう区切り方でどう固定されてしまっているのかは謎)たちが帰ったあとの、あのあまりにつよいひとりぼっちの感じときたら、なにかいいようのない漠たるものなのです。あてどなく手を止めていると、いったい何を嘆じているのかわからなくなってくるところもあって、その「ところ」というのが時間的な区切りなのか、それともそういうものでは言い切ることのできない部分的ななにかなのか、そういったものに判別もつかないまま訪れる手持ち無沙汰を慰めるつもりでやり過ごそうと、いつも目の前に積んであるような本をパラパラパラパラとめくってみると、圧倒的な仕方で目を覚させるような、じつに研ぎ澄まされたことばたちが飛び込んで来くるので、かえって手が止まってしまうところがあります。そして開いたページの上で演じられていることばに目を止めたあとに気がつく著者の身振りに、自分が誰にも理解されないような気持ちでおそるおそる思っていることが、少しだけ肯定されるような感じがあるのです。
『ケニアの豆には、クエン酸よりリンゴ酸が多いものがあるらしい。そのことが品種によるものなのか、テロワールに関係しているものなのか、明確にはわかっていないらしい』(『コーヒーおいしさの方程式』)
こういう文章にある余白の感じ、あるいは、おそろしいほど残されている読み込みの余地はどうでしょうか? コーヒーの世界であっても、そうでなくても、「品種」も「テロワール」も、ただのことばです。同時に、ただの意味です。ことわっておくと、このふたつは強力ななにかでであることは確かなのですが、それにとどまらない不気味なものを、関係として構成しているようにも見えます。ひとつの産業で、ひとつの産業にあって、多くのひとびと(と思わせる誇張の計上を前提とする数のひとびと)を、煽ったり、盲目にしたりする程度には、これらのことばは強力な磁力を持っています。
引用の文章に戻ってみましょう。ここでは「品種」と「テロワール」は、少しも重なっていないばかりか、同時にお互いに違ってさえいないような顔つきをしているところがあります。この意味が分かるでしょうか。もし何かが違っているとしたら、このふたつを取り巻いているものの、あるいはこれらの概念についてまわる経過の時間が違うとか、時間というものの見え方が違うだとか、そうやって言うことができるかもしれません。そしてその「時間的なもの」というのが、これらのことばを扱う時の居心地にある重みと同様、なにか軽々しくないもののことを思い出させたりします。もちろん上で引用されたことばの前に、コーヒー豆の育成状況についての仔細な言及があることは、書き手に「時間的なもの」に対しての行き届いた意識があることをもあらわしているでしょう。そこには品種学的な合意形成までの時間と、あるややこしさを背景に植え替えられたなにかの農産物が、根づいた土地土地で植物学的なDNAの変化を生起するまでの、(あるいはそう分類できると一定数のひとびとに認められるまでの)、いくらかの時間的な長さがあります。しかも、そこには、それぞれに品種だとか呼ばれる固有名がつけられるまでの時間と、いくらかのメカニズムを分断して固定化し、テロワールとかいうわけのわからないことばで呼ばれることになるまで待つあいだの、時間的な長さがあるはずです。じつにしぶとい、時間的な長さがあるはずです。とてもややこしい、物事の成り立ちの問題があるはずです。しかもこれらのややこしさの問題は、ある地点からいささかもややこしくない形で、急速に薄まったかたちでどこかに広がっていきます。
もう一度引用文に戻りましょう。この文章には、上にあげたややこしさが二重写しになっていることに対する自覚が見え隠れします。筆者は同時にそれがずれて見えるところにも気がついており、かすかにそのことに言及しつつ、ことばを意識して「言い淀み」のレベルにとどめているようなところがあります。あるいは、そういう態度があります。そして結局言い切れないことにも自覚的になりつつ、結果的にはある程度まで目をそらすような身振りを演じることでしか、これらのことばたちを使用した文章を構成しえないことをあきらかにして終わる語尾などにも、注目しても良いかもしれません。
わたしはしかし、(自分でそう書いておきながら)これは身振りだとかそういうものなのだろうかとも思いながら、かすかに目を大きくして、少しく感じ入ります。そしてもう一度(今度ははっきりと)首をかしげ、引用の文章の前後を何度か読み返し、そのあとパラパラパラパラとページをめくりながら、いままで書いてきたことをごくぼんやりとした形で思ったりします。そうこうしていると仕事の時間はもうすっかり終わってしまっており、呆然としている人間に向けてふたたび過去にあった出来事などが、不思議な形で自分の肩をたたいて来たりします。とんとん、というような感じです。あるいは過去が表情を変えて、やあこんにちは、などと声をかけて来たりするような、なんとも言えない感じに巻き戻るのです。