ジャン=リュック・ゴダールは、『映画史』のなかで、また『映画史』をふえんした膨大な量のノートのなかで、ある思想家のことを何度か「心優しき」という言葉で形容するのですが。。私はその比喩はもちろんのこと、彼が固有名詞を扱うときの峻別のような感覚について、いくらか時間を使って考えていました。固有名としてつよい意味を持つ人(たとえば「ゴダール」のような)にとって、その人に選ばれる固有名詞は、それ自体がつよく「形容詞的」になります。その人についてのための形容詞ではなくて、固有名詞そのものが形容詞になるという意味です。(たとえば、「ルソー」だとか「マキャベリ」だとか「ヒトラー」だとかいう名は、固有名詞であるよりまず、何よりも苛烈な「形容詞」です)。なので、ある意味では、その人物には「心優しき」という形容詞がついていても、ついていなくても、それほどは変わらないのかもしれません。よくわかりませんが。。
固有名詞の峻別という意味では、私がここ2、3年ずっと繰り返し読んでいる「ブローデル」という固有名詞で呼ばれるあるフランスの歴史学者がいるのですが、彼はそのあたりについての、とても鋭い感覚があるのです。その鋭さは、「歴史とは何か」を一度完璧に反転させ、そのあとでしかものを言えない位置をつくりだすところにあります。まずは出来事中心の歴史を。。というか、出来事とともにある「中心の歴史」を、つまり、「固有名が意味を担う歴史」というものを、たんに風の吹き方や地理的条件、地層条件などで、徹底的に解体するわけです。時間の層や持続の厚みの中にそれを沈めて、「固有名はとりわけて歴史のなかの本質ではない」ことを示そうとするのですが。。そのうえで注意したいのが、彼がくちにする(ゴダールの『映画史』のなかでもっとも有名なもののひとつであるあのフレーズ)、「わたしは固有名がたっぷりで、しかもよく書き込まれた歴史が好きだ」、ということばでしょう。一見するとこのふたつは、とても大きな矛盾をはらんでいるように思えますが、(私が思うに)、このことはおそらくまだ固有名に依存している段階の言葉ではなくて、固有名がすでに“中心ではなくなったあと”の固有名なのです。そして、(というか)だからこそ、圧倒的に強いわけです。通常「歴史」では、固有名のつらなりは意味の担い手であり、個人は総体に対するそれぞれのパーツに過ぎないはずなのですが、転倒後にブローデルが浮かばせる固有名は、表層に現れる「密度の転換点」、あるいはその「転換可能性」そのものとなっているわけです。
『歴史はその歩みを止めているかのように見えるとき、最も深く動いている。世界史でオランダからイギリスに覇権が移ったのは、あらゆる政治的・情勢的な変動ではなく、たんに卓越風のおかげである。帆船のおかげでイギリスに立ち寄るしかなかったことが、最終的に保護貿易主義のほころびを作ったのだ』(ブローデル)
つまり彼は、「オランダ」なり、「イギリス」なり、「ルイ14世」なりといった固有名を一度無効化したうえで、もう一度それを扱おうとしているわけです。しかも、その再使用はまったく無邪気なものではなくて、背後に長い時間軸をあてにしたもの(ラ・ロング・デュレだとかサスティナブルとかの概念)の絡みつきや、逃れ難い構造の圧倒的な厚みがあることを知ったうえで、あえて固有名を“散りばめる”形の再演を取るわけです。あるタイミングにおける歴史の転換点は、オランダという固有名とともにあったなにかのせいでも、イギリスという固有名とともにあったなにかのせいでもなくて、鍵となったのはたんに地理的・局所的な「風の吹き方」だったのだというように。こういったやり方はむしろ、「歴史学」というよりは「小説家」のアプローチのように私には見えます。(フィクション的であるか/ないかというよりも、固有名の再配置によってしか成立しえない場所に、ほとんど存在論的に触れかかっているという意味で)。だから、それは出来事の復権ではなくて。。出来事を包み込んだままの、装飾に近いわけです。
固有名詞について、ジャック・デリダのようにとどまり続けるわけでもなく、ジャン・ボードリヤールのように軽やかに戯れるでもなく、一度すべてを徹底的に脱中心化=解体したあとで、何事もなかったかのようにふんだんに書いてしまうやり方。。しかも、それがたんなる理論としてではなく、歴史記述の実践として行われるところが、ブローデルが20世紀の歴史学者の中で圧倒的に見える理由だと私は思います。ただ、そこには危うさもあります。それは『告白』や『エミール』という著作の、あるいはそういう著者を書いた人が持っていたようなあの感じの危うさです。あの、「距離や配置という概念を全て狂わせてしまう」だとか、「パラノイアックな混乱」(ド・マン)だとか、そういう言葉が出てきてしまうような、わけのわからない危うさです。なぜなら、ブローデルの書き方では、あのしゅの生成の場所や混乱といったものには触れられないからです。彼の書き方では、固有名は戻ってくるけれど、それが立ち上がる瞬間の震えはすでに層の中に溶けているようにも見える。(というか、ブローデルは固有名が「世界」に溶けていいとすら思っているように私には思える)。歴史を転倒したあとでしか言えないこと、そして、その転倒の痕跡を表に出さないという意味で、かなり特異です。
固有名を回収せずに扱うことは可能か? これは、個人的に長らく人生で考えていることです。ジャック・デリダに私がつよく惹かれているのも、彼がこの問題を誰よりもしつこく考えているように思えるからです。知らないあいだに勝手に名前をつけられたものが、勝手にどこかの場所に放り込まれ、勝手に何かを要求されてしまう。これは、ほとんど人間の生存の条件に近い、魔術的ななにかです。人が一生をかけて払うことになる、対価なしの負債です。こういったものの回収の直前で踏みとどまり、「書き込み=巻き込み」の魔力を解体しようとするデリダと、回収の構造ごと変えてしまおうとするブローデル。固有名に対して、20世紀の知性では、これらの二つの極端な解が出ています。
これはひとつの手がかりです。どういう手がかりか? 何を歴史と呼ぶかの中身をすり替えてしまったり、ものごとのなにごとかの構図レベルへの放り込みに対する、ひとつの手がかりです。また、それが秘密裏に行われてしまったり、商品だったり、コーヒーだったり、なんとかだったりが、「商売的に有利になるように配置を楽しんでいる」(田口護氏)ことを見届けるための手がかりです。もちろん、こういう種類の「手がかり」をわれわれに残しているのは、アナール学派(そういう言葉の使い方にもっとも批評的だったのに、ヌーヴェルヴァーグだとかポスト構造主義だとかというのと同じように、そういうレッテルを貼られてしまっている人たち)だけではなかったと思います。「思考のクリナメン」(マルクス)の先に自分がまっさきに思い出すのが、ヴァルター・ベンヤミンです。ベンヤミンは、「普遍」ということばの成り立ちから、歴史主義のピークを浮かび上がらせたりした人です。それはもう二度と元に戻れなくなるようなまなざしであり。。出来事中心で読むことが急に素朴に見えてしまう、というか中心に意味を託すことが、少し不自然に感じられてしまうように場を作り替えるかのごときまなざしです。しかも彼は、それを批判的なアプローチで提示することもせず、逡巡のうちにただ淡々と別の見え方があらわれる可能性に触れようとするので、その結果読み手のほうが勝手に足場を失ってしまいます。ブローデルのようにすべてをマクロな自然条件に回収して冷徹に美しく再配置する(=それによって個別の震えを消してしまう)のでもなく、デリダのように、「概念」というものの「根本的な不可能性」を、絶えず突きつけるのでもない。静かな喪失、そこにはヴァルター・ベンヤミンにしかない、ヴァルター・ベンヤミンという固有名詞の、固有性に向けた独特のまなざしがあります。
『過去は危機の瞬間にひらめくようなイメージとしてしか捉えられず。。それでいて捉えがたい救い上げられない過去のイメージは、すべて消え去る恐れがある』(ベンヤミン)
自分はベンヤミンについて。。ゴダールが何度も「心優しきベンヤミン」(le doux Walter)という呼びかけを、彼の映画や創作物のなかでしていることがとても心に残ります。その、「心優しさ」とは何なのでしょうか? 自分は長いこと、その「心優しさ」について考えているのですが。
