どれくらいか前のことでしたが、(お店の入り口の方からでなしに)、会社の従業員通用口から、とあるカフェの店主に入店してもらったことがありました。そのときその瞬間のことではありませんでしたが、室内にある張り紙があったのを指摘されたことを覚えています。そこに掲示されていたものはこういう言葉でした。
「創造的たろうとして、脇道にそれてはいけない。通常なされていることを観察し、それをより良くしようと努力すればよい」(アントニ・ガウディ)
例えば「20世紀で最もクリエイティブだった人物は誰か?」、そんな質問があるとしたら、異論があるのは承知のうえで一人だけ挙げるとすれば――ジャン=リュック・ゴダールを除けば――アントニ・ガウディになるのではないでしょうか。そんな人物が「創造的たる」ことを否定しながら、日々の積み上げのほうに向けるまなざしがあったことに、自分は何か今自分のしている仕事の肝要がある気がして、言葉のプリントを室内に掲示していたのです。(写真であれば)サグラダ・ファミリアを見たことのある方は多いと思いますが、私が心を打たれたのはそれらの建築物の圧倒的な見た目の華やかさではなく、彼がものをつくる時に常に意識していたこのような姿勢にあります。創造とはクリエイティブなことをする行為ではなく、目の前の現実をきちんと見て、ほんの少しでもよくしようとすること――。その静かなまなざしに、私は深く共感したのです。ガウディがどれほどの傑物だったか、現代建築にとりわけ詳しいわけでもない人間が言えることはそれほど際立ったものではありませんが、例えば桁外れにある一面を持っているものが正反対の見え方がするという事実に対しての、創意というものの凄まじい幅を見るわけです。彼は「逆さ吊り模型(フニクラ)」という技法を使って建築の構造を導き出しましたが、鎖やロープを逆さに吊るしてできる自然なカーブをもとに導き出された無理のない美しい設計(理論的には複雑とかいう概念を超越したレベルのもの)が、子供でもわかるような方法から取り出されていることに、個人的には言葉ではうまく言えない美しいものを見ます。
創造的なつもりであれこれ工夫しすぎたり、目新しさにこだわりすぎたりすることのぐらつきは、自分が今している仕事における多くの人のつまづきにも関わっています。それは、だから、もちろん自分自身のつまづきにも関わっています。決して派手ではない何かによって心に残るもの、もっとも複雑な形式が子供でもわかるくらいのシンプルさに収斂すること。印象の「ちょうどよさ」には、創造の本質がある気がするのです。自分はそのことについて、もう一度きちんと考えてみたいと思います。コーヒー豆をさわったりする日々の流れの中に足を止めて、もう一度きちんと考えてみたいと思います。