コーヒーの仕事は、どこまでいっても「媒介」の仕事ですが、媒介の先にあるはずの「コーヒーそのもの」はどこまで行っても指し示すことができないという、それ自体うまく提示できない構造があります。かつて誰かがどこかで読んだ本質があり、それについて提示されたなにかがあり、そのうえで自分がもう一度対象を読み直そうとしているとき、そこには先行者の影がほとんど幽霊のように漂って見えるわけで。。この「見えているに見えないもの」、あるいは「重なろうとしても重なれないこと」のもどかしさについては、先日、(これは確かコーヒーについて何かを書いている人に対してのものだったと記憶しているのですが)、その様子がまるで磁石のひとつの極に向かって、同じ極が重なろうとしているような独特のおかしみがある、という話をしたことがあったのです。
私はいつも思うのですが、磁石というのはとても奇妙なもので。。異なる極同士が引き合うことで、ものを引きつけたり固まり合ったりするのに、同じ極同士であると、ありえない斥力が発生してしまいます。S極ならS極、N極ならN極というふうに。。同じものが同じであれば何もおこらないのに、同じものが離れているところから重なろうとするかぎり、同じだという理由で重なれないことが起きるのです。これは人間の同族嫌悪だとか近親憎悪とかをこえて、物理的に奇妙な状態です。たとえば優れた読み手にとって、提示されたなにかはある意味で「自分と同じもの」として出会いますが、その瞬間に「自分ではないもの」としての強烈な斥力が生まれる、そんな事態があります。このあたりのなまなましさは、コーヒーの仕事をする自分にとっては、まったく無縁のものではありませんでした。しかし、私は思うのですが、「読む」というのは一体なんなのでしょうか? それはもちろん、何かを書くことの手前にあるものではなくて、私にとってコーヒーの仕事においてのものです。イェール学派のことでいえば、ハロルド・ブルームにとって「読むこと」は「誤読」であり、ポール・ド・マンにとって「読むこと」は「アレゴリー」でした。では、ジャック・デリダにとっては? デリダなら、読むこと「とは」、というふうには言わなかったしょう。「◯◯とは?」などとは、くちがさけてもいわなかったでしょう。彼は彼の書いているもののなかで、「言明は単純な主語と述語の等置ではありえない」ということを、いつもくちにしていたからです。(言語の機能性の問題によって)、かりにもしそれをいうのはほとんど不可能な事態であったとしても、たえずそのことを言っていた気がするからです。それはいわば、(主語に対して)述語のない世界です。
ポール・ド・マンはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』について、「代替の連鎖しかない」(『読むことのアレゴリー』)と言いました。それは、つまり、述語しかない世界です。主語しかないデリダと、述語しかないプルースト。この交錯地点において、二人は重なります。実際、このふたりの関係でいえば、(私が知るかぎり)あるフランス系の学者がデリダについて「マルセル・プルーストのあとに書かれたゆいいつのフランス語」と言ったことばは、あきらかに至言に思えます。しかし、今の私の関心は、そこにはありません。
先日、私はゴダールの『自画像』(映画)を見ていたのですが。。そこでほとんど気にもとめなかったこととして、急にあざやかに印象に残ったのが、彼がスイスとフランスの国境線上をふらふらしながら足を落とし、フランスを指さして「キングダム」と呼んだ場面でした。それは本当に印象的な場面でした。中心的なものは、中心ではないものの印象とはずれています。というか、中心という概念そのものが、指したものとはたえずずれていくのです。このことは、本当に微妙な問題です。実際、フェルナン・ブローデルは、微妙ではなくもっと過激でした。彼は「フランスという国はない」、といいました。このことばの意味は、はじめて読んだときはあまりよくわからなかったけれど、今はなんとなくわかる気がします。彼は「自分には、ルイ14世の意味がほかの誰とも違って見える」、ともいいました。これもはじめて読んだときはあまりよくわからなかったけれど、今はなんとなくわかる気がします。あるいは、これは言いすぎかもしれないのですが。。私は「コーヒー」というものに対して、ほかの人が「コーヒー」と呼ぶものと自分がなんとなくそれと思うものがあまりにもずれているので、一連のブローデルのことばをいつも思い出すのです。しかし、それもたぶん「コーヒー」ではないのでしょう。
