最近、カフェの喧騒の中でふと、古代ギリシャの哲学者エピクロスが唱えた「原子の逸れ(クリナメン)」に思いを馳せることがありました。若きマルクスが学位論文で論じた、あの「偶然の偏り」のことです。「資本主義」――マルクス自身がこの言葉を生涯一度も使わなかったことは、100年後にフェルナン・ブローデルが喝破している――において、資本は M →C →M' (貨幣→商品→増えた貨幣)という循環を繰り返しますが、この運動の本質は「速度」にあります。回転数が増えるほど利益は増幅されますが、加速は常にシステムの「余裕(遊び)」を削り取り、不安定な危機を内包させる自己矛盾を孕んでいます。
「速度」の呪縛を考えるうち、私は市場(マーケットプレイス)の起源へのほうへ、自分の考えが自然に移っていくのを感じたのものです。もともと市場とは、資本主義の装置ではなく、単なる交換の場所でした。中世ヨーロッパの広場で開かれた定期市のように、生産者と消費者が直接出会う、ある意味でじつに長閑な生活のための空間だったのです。この「場所」を「利益を生む装置」へと変容させたのは、商人(商人資本)の登場でした。商人が異なる市場間を繋ぎ、価格差から利益を得るようになると、市場は物理的な「広場」をこえ、「利益を生む装置」へと変容しました。こうして市場は、単なる「場所」ではなくなります。そしてそれはネットワークとしての装置になります。
交通: 街道や航路による物理的接続
金融: 為替や銀行による決済システム
制度: 契約や商法という信頼の枠組み
こうしてうまれた三点の重層的な関わりによって、現代に続く経済構造が完成します。
資本がネットワークを駆け巡り始めると、追求されるのは、徹底した「速度」です。現代のカフェで見られる「座席回転数」というシビアな(あるいは素朴な)概念も、その最適化の末に現れたものです。しかし、ここで見失われがちなのが、商人や市場が本来持っていた「媒介(メディエーション)」という根源的な価値です。かつてオランダが「仲介貿易」によって世界の「富」の概念を再定義したように、本来の経済の中心には、分断された領域を繋ぐ「あいだをとりもつ働き」がありました。生産者と消費者、都市と都市、あるいは現在と未来など、それらを結ぶ「仲介」とは、単なる移動や中抜きとはいえないなにかがありました。具体的にいえば、異なる文脈を読み解く「翻訳」、リスクを引き受ける「判断」、そして「関係の構築」という、極めて人間的な能力を抜きにして、この『あいだをとりもつ働き』が真に機能することはありませんでした。
カフェという空間は、まさにこの「媒介」の現代的な継承のひとつです。人と人、仕事と休息、私的空間と公共空間、その「あいだ」に立ち、異なる世界を接続する装置として、カフェは機能します。それは単なる飲食業という枠を超え、人間社会を成立させる基礎的な機能――デリダが触れたような、他者を受け入れ、世界と接続するための「あいだ」の創出――に他なりません。「速度」という資本の論理に抗いながら、いかにして豊かな「媒介」(メディエーション)であり続けるか?
それは困難です。職業としての「カフェ」の困難です。しかしその正体とは、このめまぐるしい速度の時代において、人間が人間らしくあるための「接続点」を守ることにあるのではないか。。
ものすごい「速度」ですらすら書いてしまいましたが、最近私が考えているのは、なんとなくそんなことです。
