わたしが鳥目散帰山人(とりめちるきさんじん)氏に出会ったのは、コーヒーに対して職業的に向き合う活動をはじめてから間もないころのことでした。カフェバッハのトレーニングセンターに通ったあと、空気の流れのような自然な形で、コーヒーに関わるさまざまな人と出会う機会にめぐまれたのです。このあたりはほとんどすべて、近隣市の自家焙煎珈琲店コクウ珈琲さんのおかげです。最初にカフェバッハに行くような箴言をもらったことも、その後の「業界話」にいささかの興味も持てないわたしに対して、(おそらくこの程度は必要であるというような)、いまから思えば感謝しかない種類のお世話をしてもらったのも、コクウ珈琲さんのおかげです。当時わたしのまわりに限って言うのであれば、コーヒーをめぐるさまざまな言説、あるいはそれをもたらすための場所は、何かかわいいような独特のコミュニティを形成しかけていました。(そういうふうに、自分には見えていました)。それは本当に独特でした。あのかわいい感じは、意識的にも、無意識的にも、その後の自分の職業上の「コミュニティ」と言うものに対するスタンスに何らかの影響を与えているかもしれません。当時どういう風潮に押されて、それらいっときのコミュニティが成立していたのかは、よくわかりません。わたしはとにかく、そのあたりのことにとてもうといのです。あるとき某所で信頼している人に、「この人は天然だから」といわれて、とても恥ずかしい思いをしたことがあるくらいです。いずれにしても、その時あった出来事はそのまま固まることはなく、出会ったもの同士(いまから振り返るとずいぶん長い時間をかけて)、それぞれの関係が生まれていった気がしました。
問題のある日、わたしはいささか体調を崩していました。微々たるものではありましたが、下熱しない体温の感触があったのです。覚えているのは、体温計に表示されているもの以上に、体はずいぶんふわふわとしていることでした。こういうときに、人は自分の意思をこえたものから遊動への自粛を受け取り、不活発に納得をすることもあろうかと思います。しかし、そのころ(あるいはいまもって)行動に関して「抵抗」の二文字をめぐってばかりの自分がしたことは、考えのまとまらないあたま(おでこ)に解熱シートを貼って気合いを入れ、コーヒーの業界人が一堂に会している食事場の、終わりの時間にふらついた足取りで姿をあらわすというくらいのものでした。そして何を隠そう目がうつろなまま、あたま(おでこ)に水色のひんやりするものを貼り付けてふらつく青年がはじめて出会ったのが、そんな状態で会うのにこれほどふさわしくない人もいないであろう、鳥目散帰山人氏そのひとでした。
わたしは当時(いまもですが)やたら壁にもたれかかる癖があり、その時はそんな体調だったので目つきもおかしく、腰で座した椅子の上半身も軟体動物然りと、ひどいありさまだったと思います。つまり圧倒的な知性を目の前にした経歴の危うい微熱の男は、ジェルシートをおでこに貼りつけたまま、ほとんどふざけたような姿で何かを話したわけです。次から次へと思い浮かぶ事柄を、混乱状態で熱っぽく話したわけです。話の大筋は忘れましたが、いくつかの固有名たちと、それらが会話にもたらしていた会話のニュアンスだけは、いまでもしぶとく覚えています。何について直接話したいとかいうよりも、何かのニュアンスについて話したい気持ちでした。あれから時がたちましたが、その時にわたしが話した内容に対する距離感というものは、おそらくほとんど変わっていない気がします。というか、「距離感」という概念に対する自分自身の振る舞いが、いまでも変わっていないというべきかもしれません。
世間のイメージとはまるで正反対の部分がある帰山人氏は、その場の癖だらけの人々が判を押したように自己主張の鎧を身にまとった中にあって、誰よりも冷静で、慎み深く、そして常識的でした。「察しのいい沈黙」(プルースト)のうちにわたしが捉えたのは、その後ひと知れず辿るようになった書き物にあったのと、ほとんど同じ感覚の何かです。コーヒーをめぐる言説は、過剰なものです。わたしはわりとキャリアのはじまりのころから、そのたぐいのものに疑問を感じてきました。なんとなく距離を置いておけばいいや、という安直な考え方を持って、ここまでやってきたくちなのです。ただしそれはストラテジックなものというよりも、どちらかといえば怠惰さから自然とそうなってしまった感じでした。そのことのツケは、自分でも知らない間に少しずつ、どこかで払っていたのでしょう。その痛みは覚えています。しかしそんなふうに他人との距離感をはかっているばかりでなく、れっきとしたものについて考えている時間も、もちろんあったのです。歩みはじめのころと、時がたってから感じたころ、そのどちらにも共通していますが、コーヒーをめぐる言説が途方もないことに、わたしはいつもとまどいの気持ちがありました。
そして同時に、こうも思ったのです。専門言語ばかりの世界で、「根拠なき判断基準の色眼鏡」(石脇智広氏)ばかりの世界で、上部だけでないもの、ごまかしのきかないものや覚悟を決めているものは、「ことばの選択」(固有名詞の趣味性)にではなく、「ことばのあらわれ」(文章の力)とでも言うべきものにかろうじて見え隠れしているのではないだろうかと。そういうものであれば、自分はまさに帰山人氏や、田口護氏、石脇智広氏といった人たちの書いているものから、しかと感じられたのです。中でも『私的珈琲論序説』には、舌を巻きました。論理的な演繹だけでは捉えきれない根源的な問いのかたちと、そこで生まれる主体の問題を、(それを含む形で)あらゆる言語表現で捉えようとするやり方・・・ こんなふうに言葉で言うのも、ためらってしまうような衝撃でした。
『私的珈琲論序説』の、言葉そのものが持つ「多義性」や「暗示性」を軸に、理性だけでは届かない深遠な領域に触れようとする試みは、今でも自分に何かの影響を与えています。ことばのことでいえば、素材集めの得意な人はいます。新たなことばの刺激のまわりに人々が集まるという風潮も、よくわかります。そしてそういうものが、わたしやわたし以外のひとたちの想像をこえて、ずっと数多くあるということも。しかし、自分はそういうものでは決してごまかしのきかない何かに惹かれていました。いまもそう思っています。思うというか、そういう声なき声を聴き分けるためにそばだてる耳元に伝わる振動が、この世界で今もかろうじて自分を動かしていると感じるのです。
『時間は形を変えることはあっても、本質を変えることはありません。アリストテレスからルソーまで、二千年もの間、哲学は人間の性質は「知ろう」とすることであり、知ることは善であることを確認してきました。心の奥深くに潜む真実の夢を見つけられれば、人は自分の人生に最も重要なものを生み出すことができるのです』(ブルネロ・クチネリ)
複雑で圧倒的な知性のため、他人から静かに距離を置いている人に出会い、わたしは自分が「コーヒーの世界にいること」を見つけました。そして「真実の夢」にも、少しだけ戻ってきました。これは田口護氏に出会っただけでは降りてこなかった、ほかに変えのきかない大きな気づきでもあったのです。時間は形を変えることはあっても、本質を変えることはありません。あれからさまざまな出来事が、形を変えて目の前を過ぎ去っていきました。捉え難い意味にうろたえ、何も出来ないまま気弱げに笑い、どうしようもないまま終わりを迎えた出来事もありました。思い出すことはいくつもあります。わたしとわたしをめぐる物事の形も、ずいぶん変わりました。