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幻想としての現実を生きる

Posted: 2025.07.11 Category: ブログ

ふと手を止めてのぞきこむしかない、朝のカップに注がれたコーヒーがいつもより少しだけ苦く感じられたのは、(たんに深煎りの豆をチョイスしたからだけなのかもしれませんが)、うまく説明しきれない感覚を自分に向けさせました。そこにはおそらく、少し前から、自分のうちよりじわじわと浮かび上がってきた問いが溶け込んでいたように思います。そんな気がしただけかもしれませんが。。それは、つまり、いつものぼんやりとした考え事のめぐらせです。人が何を信じ/どう生きるのかという、かつて宗教や共同体が答えてくれた問いに対して、現代ではすべての意味や答えを自分自身で選ぶ必要がある---そんな事柄については、ついこのごろどこかで書いた気がしました。つまり、それは「自由」のことです。制度や規範の正当性を解体した20世紀の現代思想やそのまわりにあった経済理論が社会の現実を可視化し、その結果として創出された「自由」のことです。けれども、私はおそらく誰も正解を教えてくれない世界に生きながら、自分で選ぶ責任だけが残されたように思えてしまうというようなことについてはそれほどくわしく書いていませんでした。

「自由に選びなさい」。

そう言われた瞬間の立ちすくみは、ずっとありました。小さな頃から? ずっとあったような気がします。

スラヴォイ・ジジェクは、こうした状況を「自由の命令」と呼びましたが、(彼の考えでは)、現代社会は「あなたは自由だ。だから選びなさい」というふうに、むしろ人々を深く縛っているということに関わっていた気がします。私たちは、自由に選んでいるように見えますが、実際にはすでに用意された選択肢の中で動いているだけで、「選ぶ自由」そのものがすでに構造の一部であり、それはある種の幻想に過ぎないという指摘です。それでもなお、私たちは選ばなければなりません。その行為に、意味はあるのでしょうか? 個人的にジジェクの提出した問いと答えを承継していると思えるデヴィッド・グレーバーは、貨幣や雇用制度といった現代の枠組みを、「フィクション」、つまり人間が作り出した「物語」のようなものだと捉えていました。しかしその捉え方は、わかりやすいことばほど単純なものではありませんでした。グレーバーは、それを冷笑的に批判するだけの立場ではなかったし、むしろ、人間は意味をつくる存在であり、「物語を編み直す力」を持っているという希望を信じていました。制度は幻想かもしれませんが、その幻想がどう描かれ、誰によって紡がれるかによって社会のあり方は変わっていきます。そう考えるのが、彼の一貫した思想でした。

ジジェクとグレーバー、ふたりの視点を丁寧に受け取ったとき、私はやはり、「経営」という営みの意味を、もう一度深く考えたくなります。経営とは、「どのような物語を信じ、どんな幻想を自分の人生に引き受けて生きるのか」という問いに向き合う実践であり、たんに事業体が収益を上げるための技術的な態度でないことはたしかなのです。それがこの頃の自分が、痛切に感じていることです。。ジジェクが明らかにしたように、私たちは真に自由に選んでいるわけではないのだし、グレーバーが示したように、制度はやはり虚構でしかありません。しかし、(だからこそ)、それでも人は「選ばなければならない」のです。

「選ぶ」といっても、「何を?」。。コーヒーのことでいえば、(コーヒーのことでいう必要があるのかもよくわかりませんが、私はコーヒーショップの経営者としてしか社会と接点を持っていないので)、私たちが日々行う選択は、やがて訪れる小さな営みの中ににじみ出てきます。コーヒーを淹れるときの手つきや、接客のときに交わす短い会話や、あるいは焼き菓子の種類にさえ、その人の倫理や美意識が表れていると感じます。だからこそ、個人的には経営を「美意識の実行」と捉え直すことにいささかの抵抗もありません。もちろん、すべてがそういうものに還元されるわけではありません。それはわかっているのです。というか、成功しかけているコーヒー屋こそ、この辺りを勘違いしていないでしょうか。むしろ余白や葛藤に満ちた時間の方が大きなものに感じられる(気がする)私は、価値と価格のあいだで揺れ動きながら、自分の理想と現実をなんとかすり合わせようとする試行錯誤のなかに、自分の仕事を置こうとしています。すべてが明確でなくてもかまいません。曖昧なままにでも意味をつくっていくこと、それこそが、人生に責任を持つということなのだと私は考えます。

アリストテレスは、人間の知恵は「知識」ではなく「実践知(フロネーシス)」であると語りました。それは、理屈だけでは導けない「善」や「適切さ」を、状況の中で判断し、「行動に移す」力です。私は、現代の経営にこそ、この実践知が強く求められていると感じます。構造が解体され、制度が虚構であるということが自明になりつつある現在、私たちは「この世界をどのように編み直すか」という地点に立たされています。誰かが用意した正解に従うことはできないからこそ、自分の感性や倫理に従って、もう一度、丁寧に選びなおしていく必要があります。その営みこそが、現代における「経営」の本質だと思います。それはつまり、幻想のなかに住まいながらあえてその幻想を信じ直すための行動です。そしてそれは、「ただの静かな選択の積み重ね」でもあります。苦い選択の積み重ねです。苦みが残るからこそ、一杯のコーヒーは深く沁みていく。。それが今手元にある、コーヒーの味だと私は思うわけです。

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