店主です。
あらたまって『エクリチュールと差異』、という(かつて古い記憶の中で)いちど読んだことがあるはずのとてもぶあつい本を読む機会があり----もっともそんな機会は自分がほとんどばかなんじゃないかと思うことをしているときに訪れたりするので----相変わらず斜めからしか本を読むことができないわたしは、著者がロジカルなことばでなにかを攻めていく調子よりも、時折もれる「憂愁の情調」だとか、そういうことばの調子が気になってしまいます。気になるといえば、この著作に向けたわたしの関心は、書き手が事物の組み合わせを試し切って解体しきったあとに、もはやいったいなにを書くつもりなのかという興味から来ているところもありました。
『形が魅惑するのは、ひとがもはや力をその内側から理解する力を持たないとき、要するに創造する力を持たないときである』(「エクリチュールと差異」)
そのことに関してかそうじゃないかはわからないのですが、こういうことばを受けて、自分はあたまのなかにかつて(数ヶ月前に)自分の前にあらわれて去って行った人のことばがまた鮮やかに浮かんで来ました。「それでも自分はフレームを探す」、たしかそんな感じのことばです。「ひとがもはや力をその内側から理解する力を持たないとき」、「要するに創造する力を持たないとき」ということでいえば、自分はかつて『感情教育』という作品を書いたあるフランス人作家について、その作品にある「批評」というもののこと、「構造」というもののこと、そして「映画」という概念のことについてなにかを書いたことがありました。ぼやっとした書き方しかできなかったそれは、結局「憂愁の情調」(デリダ)だとかいうことばを、自分がかつて読んだはずの『エクリチュールと差異』から思い出せば良いだけだったのかもしれません。フローベールの表明しているもの、事物は寄せ集めであるというようなあの作家活動すべてをあつめて表明している感じは、もしくは結局あとから気づいたものをいうしかないというとてつもなく苦いあの感じは、こう言ってよければ、実に「映画的」ななにかです。あるいはこういってよければ、「どれだけ望んでもそうならないもの」へ向けた、「憂愁の情調」です。
これらは「外側」(デリダ)からの運動に関わっています。絶対に手に入らないものに焦がれてしまった人の妄執だとか、死期の迫った人間の精神状態だとか、「どれだけ望んでもそうならないもの」や、「どれだけ望んでもそうなれないもの」に深く関わっています。このことは、しばらくのあいだ自分が考えていた事柄でした。ある人の死に触れてということもあったと思いますが。。たとえば、「現実」に対しての「映画」だとか、「作品」というものに対しての「批評」だとかは、「外側」(デリダ)からの運動に関わっています。いずれも「どれだけ望んでもそうなれないもの」に、深く関わっています。しかし、これは本当にうまくいえないことで。。そもそも、言ってどうにかなる問題だとも思っていなかったので、(こう言ってよければ)、ようするにそれは問題だとも思っていなかったということかもしれません。たとえばふだん、自分はコーヒーとかいうなにか(それがなにだとかは決して言えないようななにか)に対して、そう思っていたり、(思ってもいなかったり)するように。。結局のところ「問題とすら」(ウィトゲンシュタイン)思っていなかったのかもしれません。コーヒーの話がしたいわけではないのに、コーヒーの話になってしましたが。。コーヒーのことでいえば、そもそもこういうふうには言えないでしょうか? たとえば、コーヒーの定義をするのは、カメレオンの色を定義するのに等しいのだというように。それはつねに置かれた状況によって変わってしまうとしか言えないし。。もし「ひとつの色をつよく言うひと」がいるのであれば、それはおそらくただそのひとの立場や、その人の状況をつよく表わしているという以外にないのです。
『ソポクレス以降の私たちはみな入れ墨をした野蛮人であるのかもしれない。それでも〈芸術〉のなかには線の廉直や面の光沢とは異なる何ものかが存在しているのです。文体の可塑性は、観念全体ほどに広いものではありません。私たちは多すぎるほどの事物を持っていますが、フォルムを十分に持っているわけではないのです』(フローベール)
これは『ある作家の日記』からの引用ですが、わたしが探してきた文章ではありません。(相変わらず)、デリダの著書からの孫引きです。自分はいまこういう文章を読むと、とてもつよく訴えてくるものを感じるといわざるをえません。この文章を読んで、自分ははじめてフォルムを探す、フレームを探すということの意味がわかった気がしたのです。それを言った人の意味も、わかったような、わからないままのような。。ただ、ひとが「多すぎるほどの事物を持ちながら」、「形を十分に持っているわけではない」という、ことばの意味はわかったのです。
『プロは無知や疑問を放っておかない。それはすなわち、損失なのだから。もし100パーセントの知識技術で利益がでる場合、10パーセントでも知らないことがあれば、それは毎日営業の中から、10パーセントの損失を出し続けているのと同じだ』(田口護氏)
そのことばは、コーヒーに置き換えると、個人的にはこういうものになります。フォルムやフレームというのは、「放っておかない」なにかに関わっています。これは間違っている気もしますが、やはりそうではないかという気もします。ある機会があり、「カフェをやりたい」というたくさんのひとたちの願望に触れたあとで、自分が考えていたのはそんなことです。