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支配階級のアナロジー

Posted: 2026.06.04 Category: ブログ

フェルナン・ブローデルは、「世界経済」ということばに関して、「世界経済」(エコノミーモンド)などというものはほぼ存在しておらず、「世界=経済」ないし「世界」と「経済」(エコノミ・モンド)」という概念が形にされているだけなのであって、この微差異に気づけること、それに気づけるものの見方こそが重要であるとくちにしました。これは、細かくうるさい指摘にも思えますが、本当に重要ななにかではないでしょうか? 世界経済を語る人たちは、ほとんど「世界」についてか、あるいは「経済」についてか、どちらかしか語れていません。(そして、そのことについては、自覚もしていない場合がほとんどです)。両方のことを同時に語るというのは、ほぼありえないのです。たとえば、「コーヒーの歴史」についても、私はブローデルとほとんど同じことを思います。コーヒーの歴史を語る人は、「コーヒーの歴史」ではなくて、「コーヒー」と、「歴史」、それぞれについて語っているのです。あるいは、「コーヒー」か、「歴史」か、そのどちらかを語っているのです。このことはたわいもないように思えもしますが、本当はものすごく見逃せないなにかをふくんでいるような気がします。しかしあらゆるレベルで、あらゆる形式で、こういう優れた物の見方さえも、事物の関係そのものを見ることさえも、「事物」そのものに変わっていってしまうことには注意が必要です。

『史的システムとしての資本主義は、古いシステムが崩壊したために自らブルジョワジーに変身していった地主貴族によって生み出された、というのが基本的に正しい。かれらは古いシステムを崩れるにまかせて、どこへ行きつくかわからないままにしておくよりも、思い切った構造上の大手術を試みて、直接生産者を搾取する能力を維持する方法、というより、それをますます強化する方法をとったのである』(イマニュエル・ウォーラーステイン)

「歴史」というものの見方の硬直と、それに向けた批判の話であれば、こういうものがあります。たとえば、「断絶」に見えたものが実は「支配技術の更新」であり、「市民革命」ですら支配構造の変形にすぎないというような考え方です。ウォーラーステインは、「支配インフラ」と呼べるものはむしろもっともわかりやすい市民革命=自由との引き換えによって完成してしまい、「本当の自由」はほとんど永久に不可能になってしまったと指摘します。彼は断絶に見えるものほど、実は支配構造の高度な自己保存だったのではないかという、“構造の自己修復能力”を見ていたのです。

『この新しい歴史像が正しいとすれば、資本主義から社会主義へ、つまり資本主義的「世界経済」から社会主義的世界秩序への移行という現実の問題についても、よほど考え方を変えなければならないことになる。これまでは、「プロレタリア革命家」の概念は多かれ少なかれ、「市民革命」のそれをモデルとしてつくられてきた。ブルジョワジーが貴族を打倒したように、プロレタリアートもブルジョワジーを打倒するだろう、というわけである。このアナロジーこそは、世界中の社会主義運動の戦略家を固定化する際の基本素材となってきたものである。しかし、そもそも市民革命などというものは存在しなかったのだとすれば、プロレタリア革命もまたなかったことになるのだろうか。将来もありえないことになるのだろうか』(ウォーラーステイン)

この「新しい自由」が、「より高度な支配インフラ」へ転化するということは、現代の「新しい個人主義」によってこそ見え隠れします。「自由な主体」が増えれば増えるほど、その主体を媒介するインフラへの依存も増す。。人々があらたに何かを獲得し、自由になろうとするそこには、常により高次元の「支配インフラ」が保温されるからです。これはマルクスが見ていたものよりさらに柔らかく、さらに深く、さらに不可視的です。

支配が単純な暴力ではなく、「回路を握り続ける能力」であることは、ある時代から形を変えて継続し続ける社会暗部です。マルクス主義の根幹にあるアナロジーが崩れたのも、ブルジョワが貴族を倒したようにプロレタリアートもブルジョワを倒すという革命図式が、どこか間違っていたことがあらわになっただけです。そもそもウォーラーステインは「世界史にはじめからブルジョワ革命など存在しなかったのでは?」とまで言ってしまう。これは静かですが、ほとんど爆弾です。フェルナン・ブローデルは「自分にはルイ14世の意味が他の誰とも違って見える」と言いましたが、アメリカのフェルナン・ブローデル研究所の所長だったウォーラーステインが、完全にそのことの答えを出しているように私には見えます。「支配インフラの保温」があたたかな市民革命によって決定的になった、というウォーラーステインの視点はあまりにもラディカルです。なぜなら、われわれが解放として起こす出来事は保温であり、いつもあとから低温やけどによってその意味に気付かされるからです。この視点に立つと、「自由」が支配技術の更新媒体になっていき、そのことが終わりのないものに見えるという、いくらか恐怖のような見え方があらわれてきます。

21世紀に入り、かつて「モノ」として認識されていたなにかは、ほとんどすべてフロント商材に引きずり出されました。「固形物」が「液体化(ストリーム)」し続ける多段構えの果てに、人間の体験という体験は、すべてバックエンドにまわりました。しかし今やその構図そのものが反転し、「感情」や「生きていること」といった体験すら、オンライン上の燃料として、「究極のフロント商材」としてストリーミングされ、消費されています。この混乱は多段構えの一番奥にあった、海辺の砂浜に書かれたなにかの概念(フーコー)がもはや本当に消滅していることのあらわれなのでしょうか。ウォーラステインの指摘通り、近代以前の支配は、「従え」という露骨な命令でしたが、近代資本主義は、「自由にしてもいい」(ルソー)という号令のきっかけから、秘密裏に「露骨以上の支配」を進めているわけです。ここまでくると、近代社会とは、もはや「支配の洗練化の技術そのもの」ではないかという気さえします。これが「解放」や「自由」という名の、最も洗練されたエネルギー補給によって、自らを延命し、巨大化し続ける抽象インフラ(システム)の正体です。そしてこのことは、デリダ的に言えば解放が常に制度へ回収される問題でもあるし、フーコー的に言えば、主体化そのものが統治技術になってしまう問題でもある。。

『良い人生の大部分は、あなたが避けることのできた喧嘩や病気、抑えることができた欲望の上に成り立っている』(モーガン・ハウセル)

私は最近、ずっと「人が何かしたか」ということよりも、「何をしなかったか」ということを考えています。「どこに接続しなかったか」「何に回収されなかったか」「どの回路に乗らなかったか」ということについて考えています。それはおそらくたぶん、ゴダールがああいうしかなかったあのことばのこと、「人のしたことは何をしたかではなく何をしなかったかによってあらわれる」(『映画史』)という、本当にギリギリのことばのことなのです。

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