カフェ・アダチ ロゴ

 

店舗情報

12:00 – 17:00 L.O. 16:30
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

駐車場20台

© Cafe Adachi

ブログ

Blog

映画が身を引くとき

Posted: 2026.08.10 Category: ブログ

そもそもの始まりは、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』でした。

今夏、私はコーヒーに関わる仕事の一環で、とあるECモールのカンファレンスに参加するために東京へ向かいました。そしてその時はまるでわかっていなかったのですが、その数日後、京橋の国立映画アーカイブでは「没後七十年 映画監督 溝口健二」という展覧会が始まったようでした。私はすぐ近くのアーティゾン美術館まで行きながら、溝口健二とは見事にすれ違って帰ってきたのです。コーヒーのことを考えるために東京へ行き、溝口健二の展覧会とは入れ違いになる。あとになって考えてみれば、このすれ違い自体が、どこか溝口映画そのものに似ていたような気がして驚きました。目的を持ってどこかへ向かっているのに、いつの間にか別のものによって、別の場所へ運ばれている。そういう出来事に、いつのまにか巻き込まれていた気がしたのです。

東京のホテルで一人、なんとなく見返そうと思った映画がありました。冒頭の一九九〇年のアカデミー作品賞受賞作です。それが日本ではサブスクリプションにもなく、Blu-rayも容易に手に入らない。その事実に、私は首をかしげる気持ちでした。レコメンド欄にはよくわからない映画がいくらでも並んでいるのに、(ある意味において)映画がもっともシリアスだった時代の、アカデミー作品賞を取った映画を見ることができない。奇妙な話です。しかしよくよく考えてみれば、アカデミー賞と作品の流通はまったく別のもので、自分でもなぜそこを混同していたかを今となっては疑うばかりです。映画史的な評価がどれほど豊かでも、日本で配信権を買い、商品として配置する会社がなければ、その映画は私たちの前から消えてしまうのは当たり前のことです。フィルムは保存されている。作品の評価も残っている。それでも見ることができない。

「文化的記憶もまた、ただの流通業でしかないのだろうか?」

そんな疑いに、私は仕事で参加したあるインフラ系の会社の集まりのあとに、二度目のパンチを喰らいました。

人が何を覚えているかは、それらがどう偉大だったかだけでなく、誰がどう流通させ続けたかによって決まります。保存とはアーカイブに残ることですが、記憶はそこから何度も取り出され、別の場所へ運ばれ、語り直されなければ生き続けることができません。出版社、映画会社、大学、図書館、批評家、映画館、配信サービス、字幕、検索データ、そしてアルゴリズムのレコメンド。これらはすべて、作品を現在まで運ぶためのインフラです。映画作品が豊かであることと、その豊かさが社会のなかで働き続けることは、完全に別の問題なのです。このことは、個人的に、マルクスが交換や流通と呼んだものに近いように思います。商品の価値は内在的なものではなく、交換され、別の形態へ移ることによって社会的に実現します。価値を生み出すことと、価値を実現することは別のことなのです。ただし、文化の場合はさらに複雑な側面があります。流通はすでに存在する価値を運ぶだけではなく、それをどうラベリングし、どう紹介し、誰の名前と結びつけるかによって、作品の見え方そのものを変えてしまいます。

例えば溝口健二を「日本女性の悲劇を描いた巨匠」として配置すれば、過去の社会問題を扱った監督に見えるでしょう。「流麗な長回しの名手」と呼べば、映画技法の歴史に収まります。けれども、「映画が人間に代わって考えることを実現した監督」として配置すれば、彼は突然、ゴダールよりも先にいた現代的な映画作家として現れます。『雨月物語』には、人物の配置、舟の運動、霧、音、カメラの距離が、実際に存在しています。それらは後世の批評家が勝手に付け加えたものではありません。一方で、それが何であるかは、作品だけでは完結しません。ゴダール以後に見る溝口は、一九五三年の観客が見た溝口とは同じではありませんが、それは後世がつくりかえた溝口でもありません。読解は作品に支持されます。しかし、作品から演繹されるわけではありません。何を根拠として選ぶかは読解が決めていますが、その最初の選択には、先行する根拠はありません。価値には根拠がある。しかし、その根拠には根拠がない。価値は作品に内在しているし、していない。後世は作品に支持されながら、その時代が必要とする価値形態を生み出しています。

私は以前から、溝口の映画の人物が、人形のように見えて仕方がありませんでした。NHKの人形劇を見ているようだと思ったことさえあります。しかし、それは人形劇というより、人形浄瑠璃なのです。『近松物語』をあげるまでもなく、彼の映画は浄瑠璃なのです。人形に心理的な内面はありませんが、それでも、首が少し傾く。袖が落ちる。身体が崩れる。そういった小さな動きだけで、感情が生まれます。感情は人形の内部から表出するのではなく、人形の身振り、太夫の語り、三味線、舞台上の位置、他の人形との間隔といった関係のなかに発生します。声は太夫から来ます。音は三味線から来ます。身体の動きは人形遣いから来ます。顔は人形のまま、ほとんど変わりません。感情に、本来の所有者がいないのです。

『雨月物語』では、源十郎たちは町へ焼き物を売りに行くため、琵琶湖を舟で渡ります。彼らには目的があります。舟も自分たちで漕いでいます。ところが霧のなかへ入ると、どこへ進んでいるのか分からなくなります。人物には目的がある。舟は移動している。しかし、自分が世界のどこにいるのか分からない。それでも人物が舟に運ばれ、舟が水に運ばれ、その全体がカメラに運ばれています。運動の主体がどこにもいません。人物は自分で動いているはずなのに、何かによって運ばれている。能動と受動を分けることができません。どの瞬間に現実から幻へ入ったのか分からない。主体が構造に溶けています。人物に感情が表れそうになると、溝口のカメラは極度に引いたり、人物をフレームの外へ出したりします。しかし、これは人物の身体的な所作ではありません。感情の発生に対して、映画がどう身を処すかという、映画そのものの身振りです。映画そのものの所作です。技法なら、ある程度は効果を再現できます。しかし所作には、効果の保証がありません。映画は何かを意味しているのではなく、まず、何かをしています。溝口の映画では、映画が映画監督であり、映画がキャストなのです。

私はここまで書いて、やはりゴダールのことを思い出すよりほかありません。ゴダールの『パッション』には、レンブラントの『夜警』を生身の人間によって再現する場面があります。人物たちはレンブラントの絵を演じているのですが、ところがカメラが動き、光が身体を横切り、音楽が流れると、誰が何を演じているのかが消えていきます。身体が、光と色彩と運動を成立させる一つの機能へ溶けていくのです。あの場面を見たとき、私は完璧に『雨月物語』だと思い、思わず「あっ」と声を出したことがありました。光には起源も目的地もないし、人物にも中心も意図もありませんが、それでも映画は動いています。ここがポイントです。レンブラントの意図、劇中監督の意図、俳優の意図、ゴダールの意図。それらすべてが映画の機能へ溶け込み、誰にも所有できない運動になるわけです。『雨月物語』では、それが幽霊として現れ、『パッション』では、それが光と人間=人形として現れました。

人間が像を作っているはずなのに、いつの間にか像のほうが人間を配置し始める。

そうとしかいえないなにかがある。ここが、あまりに似ているのです。しかし私は、ほとんど同じことを以前コーヒーについて書いていました。(もっとも、これは自分のことばではなかったかもしれませんが)。

Coffee has been playing with me.

コーヒーが私を遊んできた。

私は、コーヒーに対して、本当は何もしてこなかったのではないか。そして、普通そう思われているのとは逆に、人間がコーヒーを作るのではなくて、豆、焙煎機、熱、時間、身体、反復、飲む人、その場所の関係のなかで、コーヒーという運動が、人間を使って自らを実現しているのではないか。

映画「が」映画監督であり、映画「が」キャストであるのなら、コーヒー「が」焙煎をする人であり、コーヒー「が」抽出をする人であり、コーヒー「が」仕事をしているともいえます。

主体が先に存在し、自らの意図によって作品や何かを作るのではなく、営為のなかで主体と出来上がるものが同時に作られる。それは溝口映画のなかであらゆる意図が映画の機能のなかに溶けていくように、どこかであらゆる意図が、コーヒーという機能のなかに溶けていくこととほとんど同じです。そこまで考えて、私はコーヒーを続けていくなかで、自分でもまだ十分には分かっていなかった思考の形式が、すでに映画として存在していたことを思わずにいられませんでした。

人は目的を持ってどこかへ向かっているのに、いつの間にか別のものによって別の場所へ運ばれている。人物には目的があります。舟も動いています。けれども、どこへ向かっているのかは、誰にも分かりません。

私は東京で溝口を見ることができませんでした。しかし、コーヒーの仕事を思い出しているうちに、いつの間にか溝口の映画のなかへ運ばれていたのです。

関連記事

Categories

Latest Posts

Archives

連載「コーヒーのある時間」

← 戻る