ずっと待っているのにいっこうにやってこない、そんな形でしかなされない返事というのがあるし(そのことを考えると変な顔で首をかしげるしかない感じになる)、突然あるひとから心のこもった手紙を受け取ったりもする。。他人と文章のやりとりをする根本的な不思議さを、息子が読んでいたアーノルド・ローベルの絵本を思い出しながらかみしめています。(それはただの思い込みかもしれないけれど)、これまで自分はあたりかまわずずいぶんと何か書いてきたような気がするけれど、あらためてこの年齢になって気づかされるのは、「文章」の提出のされ方の、世の中に存在しているヴァリエーションの豊富さのことです。少なくともそのやりとりに、「話し言葉」のような種類がないと思われているとしたら、それはとんでもないことです。実際に自分はこのごろの「書き言葉」の提出をめぐるいくつかのヴァリエーションによって、しばらく手が止まったり、ふて寝したり、楽しい気持ちになったり、やたらと騒がしいことをしています。なので、「書き言葉の生産と普及」というのは、本当にわけのわからない、とほうもないことだと思うわけです。
それに比べるとむしろ、話し言葉というのは、話し手と聞き手が両方の役割を果たすという意味ではとてもシンプルです。伝わらないとしても、場面が成立した時点で、拙くても巧くても、(少々へんてこになることもあるとはいえ)確実に、何かが機能していきます。書き言葉は、そういうわけにはいきません。むしろ、いるべきはずの読み手がいなかったり、いるべきはずの書き手がいなかったりの方が、圧倒的に多い気がします。それでも文章というのは本当に不思議なもので、たとえ書いている内容が現実的だったり、依頼によって生まれたものであっても、書く人の深さや誠実さはにじみ出てしまうものです。なぜなら、内容はどれだけ嘘がつけても、文章は嘘をつけないからです。自分はこれがあるから、おそらく何かを書き続けているのだと思います。書き手が大切にしていることやあるしゅの誠実さは、選ばれた語彙の中や、行間に生きてくるのです。
それに、ある作家がこんなことを言っていました。
『書くことは、まず「今の自分を信じる」ことだ。それが過去の理想と違っていても、未来の完成形でなくても、「いまの自分が書けるもの」を丁寧に書くことでしか、本当の表現にはたどり着けない』
その通りだと思います。
自分はもしかしたらコーヒーにもそんなところがないのかな、と思いながら、仕事をしているのかもしれないと思うときがあります。それが過去の理想と違っていても、未来の完成形でなくても、いまの自分ができるのを丁寧にやることでしか、本当の仕事にはたどり着けない。そんな感覚をあたまの片隅た置いたまま、抽出をしたり、あるいは焙煎をしたりしている気がするのです。とはいえ、コーヒーは、自分にとっては思いを馳せるほどの距離感と呼べるものもないのかもしれません。あえて少し離れて見つめたとき、「嘘をつく内容」ばかり見つけてしまいもするので、そういうときにもう一度顔を近づけて、気を取り直して「嘘のつけないなにか」を影のように見つめるだけです。それを静かに、ただ影のように見つめるだけです。