昨今アメリカの著名な臨床心理学者の書いたものをいくつか読んでいて、とても気になったことがありました。彼女はとても有名な人だし、私の読み方に偏りがないとは言い切れないのですが、いくつかのことばから広がっていくイメージが揺れたのです。たとえば「近代人は神を失ったから孤独になった」という、人文学的な見識を持つ人ほどこうした精神史的な説明を疑いもなく口にしますが、私はこうした言説に、どこか居心地の悪い「不安」を見ます。メランコリーの水脈や発展、それを起因とした創意に関してはさまざまなことが言われていますが、メランコリー(憂鬱)が「見えるようになった」ことと、メランコリーが「増えた」(ように見える)ことは本来別のものです。たとえば中世の農民や古代の人々が、現代の私たちが抱くような喪失感や空虚、あるいは生の無意味さを持っていなかったとは、私には到底思えません。ただ彼らにはそれを「私はメランコリックな主体である」として表現し、保存し、流通させるための「発露の回路」が存在しなかっただけです。
フェルナン・ブローデルが物質文明の重要性を説いたように、精神のありようもまた、テクノロジーと制度の複合体によって支えられています。これは単純な事実として以上に、あまり理解されていないように私は思います。識字率の向上、出版技術、サロンの文化、日記という習慣、あるいは精神医学の誕生という「インフラ」が整ったことで、それまでは共同体の儀礼や宗教の中に溶けて消えていた個人の澱(おり)は、初めて「内面」という容器に閉じ込められ、可視化されるようになりました。つまり「神の不在」は孤独の原因などではなく、王権神授的な世界圧が抜けたあとに、テクノロジーによる発露の回路が爆発的に開かれたという、巨大な構造変化の一部に過ぎないのです。むしろ「神を失った現代人は特別に孤独である」という言説は、近代知識人による一種の自己神話に見えます。
『今生きている時間は耐え難いほど長いというのに、いつか死ななければならないという事実は、短いということばではまったく捉えられない』(大江健三郎)
神がどうだとか、どうでないだとか、あるいは不可知論をどの程度知識で処理しているかとは別に、人間に苦悩がなかった時などなかったとは思いますが、そこが感じられやすかったり感じられにくかったりする理由は、記録という概念の「生産と普及の問題」(ゴダール)に、私には見えます。しかし、これは現代のわれわれの置かれた環境からは、想像も難しい。「発露の回路」が極端に拡張された終着点からは、想像も難しい。仮にもし今、世界にメランコリーが溢れているように(冒頭の臨床心理学者のように)見えるとしたら、人間の心理が変わったからではなく、微細な心の揺れさえもが即座に「コンテンツ」として市場に流出するインフラが完備されたからでしょう。これは、人間の本性とは、少しべつのものです。
このことに関していうならば。。私が生業としているコーヒーの世界にも、似たような構図があります。コーヒーにまつわる知識もまた、博物学的なものや科学的なもの、そして商品としての価値が巧妙に混同され、切り離せないまま流通しているからです。そしてその混濁した状況に、あるいはそのあまりのナイーブさに、私は時折、言葉を失いそうになります。。回路が高度化し、説明可能性が増し、意味が流通しやすくなるほど、人間は何かを理解した気になってしまうからです。とはいえ歴史を(ブローデルのように)「理念」の変遷としてではなく、「回路」の変遷として見つめ直すとき、ようやく私たちは自分たちの孤独の正体と静かに向き合うきっかけに立ち会うような気もします。しかし。。こういうことばたちも、ただ、なにかを消費しているだけかもしれません。かつて人々が沈黙の中で抱えていた混濁を、回路によって発露しながら、消費しているだけなのかもしれません。
