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珈琲教育

Posted: 2023.02.02 Category: ブログ

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店主です。

ギュスターヴ・フローベールの『感情教育』について、現代日本におけるもっとも優れた作家が、じつに興味深いことをくちにしていました。わたしは昨年『戦争と平和』などに代表されるロシア人作家のいくつかの著作を読んでいたのですが、その作家とフローベールについての、深い洞察の意見があったのです。わたしはフローベールの『感情教育』を読んで「これは完全に映画だ」と思ったのですが、それは小説作法とは微妙に違う部分で、「すでにあるものに対する苦い意識がある」だとか、そういう感想でした。つまり、それは、「批評である」ということです。

『小説でいえば、ヘーゲルの役割を果たしたのはトルストイです。彼は完全な物語を書いてしまった。これ以上の小説はないと作品自体がいっています。 そのあとにフロベールが出てきて、終わったはずの小説を書く。「感情教育」は1848年の革命を、決して物語にならないように書いたものです。物語のディコンストラクション(脱構築)として。彼以後のすべての近代小説は、終わった物語をもう一度書く、というものなんです。 ロマン(物語)が終わったという意味で、現代はアンチ・ロマンの時代だと思いますが、歴史が終わったとして、その反対の言葉は何でしょう?』(大江健三郎)

わたしは大江氏が「歴史が終わったとして、その反対の言葉は何でしょう?」と問うたこの発言に対し、ある日本人批評家が返した発言について、そのときぽつりと返された「歴史」の反対語としてのある「単語」について、しばらく考えていたことがあります。なにか特別な考察を巡らせていたわけではありません。ただ、考えていたというだけでした。

「映画はある意味表現から最も遠い」というようなことばは、『カルメンという名の女』の映画作家の発言ですが、フローベールの書いたものからは、わたしにはなにかそういう発言と同じ種類のものが感じられます。問題のフランス人作家がトルストイを意識していたのは、おそらく間違いないでしょう。『感情教育』の終わりは、『アンナ・カレーニナ』のラストと、ほとんど同じなのです。わたしにはこのことは、ガルシア=マルケスのデビュー作の冒頭と、ウィリアム・フォークナーの代表作のはじまりの場面がそっくりなのと、ほとんど同じ出来事に思えます。「終わった物語をもう一度書く」(大江健三郎)という意味で、ほとんど同じ出来事に思えます。しかし、問題の本のタイトルに「教育」Éducationということばがついていることは、なんたる精妙さでしょうか。わたしはそのことについても、いくらかのあいだ考えていました。かつて「コーヒーインストラクター2級を受験するなら、『コーヒーこつの科学』という本を読むと一番勉強になるよ」という、あまりに「教育的」な文言を誰かに言われたことを思い出したりしながら、そのことについて考えていました。かりにもしそれらのことばが「教育」Éducation であるのならば、わたしの考えている「教育」とは、違います。根本的に、何かが違います。

「教育」といえば、ヴァルター・ベンヤミンが(彼のもっとも優れた著作において)、美術作品の「本物性/本質性」(アウラ)は複製技術のあとから生まれたと指摘したのは、とても面白い考察です。絵画作品なりが教科書として編纂されて、大量に複写される形で美術教育がはじまったことは議論を待ちません。しかしそれら「教育」が本物をあてにして、(複製のように)一般大衆になにかを教えるという構図は、本来倒錯しているものです。なぜなら、「本物」という概念こそが、(アウラということばと同様)、歴史的な段階において、(コピーなどの)複製技術のあとに構造的に取り出されているからです。多くのひとが理解できないかもしれませんが、「本物」というのは、「複製」の産物なのです。しかもこのことは、(フランス文学におけるフローベールの存在がそうであったように)、「本物」(本質)の抽出が上手い人によって、完全に覆い隠されてしまいます。わたしはここまで考えてから、ヘーゲルが大論理学を「教科書」(の編纂)として書きはじめたこと、そしてそれが見事に(形式的に)頓挫したことを思い出し、いくらか面白い気分になります。

しかし、コーヒーにおける「教育」というのは何なのでしょうか? 誰かが「教育的」な口調でくちにするとおり、「コーヒーインストラクター2級を受験するには、『コーヒーこつの科学』という本を読むと一番勉強になるよ」、だとか、それくらいのものなのでしょうか? わたしにはよくわかりません。なぜならわたしはコーヒーインストラクターなる師範的資格は、一番易しいといわれる「3級」すら持っていないからです。。個人的には、当たり前に使われていることばを確かなものだと思うよりも、それがどこから生まれてどのように機能し、どこで死んでいくかを見たほうが、いくらかは「教育」になる気がします。たとえば無意識(フロイト)というものが意識されたなにかでしかないだとか、アプリオリ(本質)ということばががらくたの中から事後抽出されたなにかでしかないだとか、そういうものを注意して見たほうが、いくらかは「教育」になる気がします。しかし、それもたいしたことではないのかもしれません。どうあったところで、ひとは往々にして「注意」が欠陥して尊大になり、瑣末な出来事に足元をすくわれてしまうというのは、綿々相場が決まっているのです。

『(…)私はさっきコーヒーを飲みに出たのですが。。そのときの私の個人的な心境は、はじめて精神分析医を訪ねるときのような、あるいは、経営者のところに職をもらいにゆくときのような心境でした』(ゴダール)

これは絶頂期のゴダールの呟きです。文脈なき突如の呟きです。コーヒーは、なにかこのあたりの「喜劇的なコンテクスト」(ド・マン)を、ふくよかにあらわしている気がします。それとあと、すでにあるものごとに対する苦い意識をあらわしている気がします。

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