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甘さと痛みの反芻

Posted: 2022.09.23 Category: ブログ Comment: (0)

甘さと痛みの反芻イメージ1

店主です。


ジル・ドゥルーズが自宅アパートから投身自殺をした際、遠く離れた極東の地で、あるフランス映画監督と彼の仕事を比較した人たち(それも複数人)がいたことをよく覚えています。


そのことは、個人的にはあまりにも浮薄で、どちらかというとめまいがしそうな出来事でしたが、わたしがそういう比較があると理解したのは、『差異と反復』著者の死から5年以上たった頃、(結局通わなかった)大学に入って、それからまもなくの頃でしたから、おそらく感想としてはひどく幼稚なものだったでしょう。とてつもなく幼稚なものだったのでしょう。年端も行かない甘い人間が、苦みばしった老練な人たちの、「用意周到且つ紛らわしい」(柄谷行人)ものの言い方など、そのころ理解できていたとはとても思えません。そこには、(わたしの記憶が正しければ)、ミシェル・フーコーは歴史家であり、ジャック・デリダはただの物書き、ジル・ドゥルーズだけが(ハイデッカー亡き後の)唯一の「哲学者」だった。けれども、ドゥルーズはゴダールに負けている。結局、映画というものが、哲学を完成させてしまった(=終わらせてしまった)。そういうふうな言説がありました。「反動的なリヴィジョニズム」(浅田彰)として、そこにはゴダールではなく、むしろ(ジャン)ルノワールを置いた方が良いのではないか、というあたまの混乱を加速させるような言及もありましたが、わたしには結局その意味はよくわかりませんでした。


映画というものが、哲学を完成させてしまった(=終わらせてしまった)のかどうか、そのことはよくわかりません。ずいぶん幼稚だったころに、わたしがゴダールの映画の中でもっとも好んでいた作品のひとつに『右側に気をつけろ』Soigne ta droite (1987)というものがありますが、あの作品の中にあるラジカセの再生ボタンを押して機械装置にものを語らせ、その場にいる人間が人称論を批評するという構造は、紙の上では決して出来ない芸当です。そういう意味で、映画にしかできない哲学というのは、あると思います。しかしこのことは、それ以上なにを言えば良い種類の事柄なのでしょうか? そのしゅの場面が「批評家的に」どれほど優れていても、個人的に、まったく個人的にわたしがあの映画でもっとも好きなところは、そういうところではないということはくちにしておいても良いかもしれません。たとえば、あの映画にあるゴダール本人が出演している場面で、彼がドストエフスキーの小説を読んでなにかを見つけ、相好を崩しているところだとか、そういうものの方がはるかに希望がある気がするのです。(ゴダールはそこで、とても可愛い顔をしています)。これは、まったく、ただの個人の感想でしかありませんが。


映画というものが、哲学を完成させてしまった(=終わらせてしまった)かどうかは、わたしにはよくわかりません。たとえば、ドゥルーズを取り出してきてゴダールと比較すると、そういう言い方がなんとなく成立することはわかります。なんとなく、それはわかるのです。細部における甘さだとか、若干の居心地の悪さまでふくめても、そのことはあまりにもわかりやすすぎると思うくらいです。しかし、フランス人というよりもアルジェリア生まれのユダヤ人である、ただの「物書き」と言って終わられていたデリダを、かりにもしはっきり「哲学者」としてそこに置くとどうでしょうか? もしかしたら(映画との)勝ち負けの結果が(結局)変わらないとしても、ドゥルーズのときとは違う、圧倒的な居心地の悪さがないでしょうか。そういう抽象的な異和にこそ、「哲学」というものの面目が見えないでしょうか? わたしは、そういうふうに思います。その意味では、哲学とは、歴史的には終わってもいなければ、おそらくはじまってすらいないものなのです。


『われわれは哲学というものが(なにであるかはいえなくても)、なにでないのかはいうことができる。哲学は、反省でも、観照でも、コミュニケーションでもない』(ドゥルーズ)


くわえてデリダは、ドゥルーズよりもばかではありませんでした。褒め言葉としての「ばか」ではありませんでした。


もちろんこれは、ただの個人の感想です。あるいは、ただのニュアンスであり、まるきり実際性を欠いた話です。ニュアンスといえば、ニュアンスが結論を永久に先送りさせるシステムというのは、たとえば『感情教育』だったり、あるいは『失われた時を求めて』といった書き物にあらわれているなにかです。そのような事実関係は、マルセル・プルーストのあとに書かれた唯一のフランス語がジャック・デリダの書いたものだった、というような優れた言説が、少しだけ照らしてみせるものでしょう。もしかしたらフランス語というものの特性なのかもしれないこれらは、そういう意味では、ヒュームの読み解きからはじめたドゥルーズを、ひどく英語的であると思わせるものです。あるいは、ハイデッカーの亡霊を色濃く引き継いでいるドゥルーズを、ひどくドイツ語的であると思わせるものです。比較言語学的に話が逸れて行くことが主眼ではありませんが、わたしにはなにか、そういう制約的な締まり方がどこかに見えたりもするのです。


ゴダールが死んだとき、わたしは自分が書いているものが(もともと変ですが)少し変になった気がしました。手元が狂ってしまいました。それこそ「消しゴム」が必要だったのかもしれませんが、わたしは「反動的」というよりも「自作自演」のリヴィジョニズムに絡め取られてしまい、結局いくつかのくわだてがうまく行かなかったのです。あたまをひねり、思案したところで、思い出したのは結局ドストエフスキーの小説を読んでなにかを見つけたときの、彼(ゴダール)の可愛い顔だけでした。彼はそこで、希望を見つけたと言っていました。たしかにそこで、「希望を見つけた」と言っていたのです。


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