『(……)『世界史の構造』や『力と交換様式』の著者は、ある直近の発言の場で、「マルクスを自己啓発書のように読む人がいる」と皮肉交じりに語っています。この言葉の痛烈さは、発言者の重みも相まって、きわめて象徴的です。思想が表面的な“成功哲学”にすり替えられることには注意が必要ですが、一方で、「思想は制度批判であるべきだ」とか「個人の実践に援用するのは浅い」という引き離し方もまた、強く吟味されねばなりません。なぜなら、共通の物語が弱まった現代こそ、思想は「個人の生き方」に寄り添わねば意味を持ちにくく、人々は制度の変革よりも、自分の選択そのものを支えてくれる思想を求めていると思うからです。ポスト構造主義が「主体」を解体し、経済学が構造を分析し尽くしたあとに残されたのは、「私たちはどう選ぶのか?」という問いでした。そしていま、経営という分野が、そのあらたな「倫理の場」として立ち上がってきているように見えます。経営とは、単なる事業運営の手法ではなく、「どうありたいか」「何を大切にするか」という個人の美意識や価値観の選択、すなわち「倫理的実践」の最前線そのものなのではないか。アリストテレスの語った「フロネーシス(実践知)」のように、日々の選択を通して自分のあり方を探る行為こそ、現在の経営の本質に近い。宗教や国家が機能しなくなった時代に、私たちは「経営」という営みを通して、もう一度 “善く生きること” を語り直そうとしているのではないか――』
かつて私は、ずいぶん得意気に、こんなふうな文章を書いていたことがありました。書き終えたあとは、何かがうまくまとまった(気がする)感覚と同時に、同じくらいうまく言葉にできない、強い疑問が残ったのを覚えています。どういうことか? ギリシア哲学、とりわけアリストテレスの思想は、世界史の中でいくどかかたちをかえて理想として仰がれてきましたが、私は都合よく忘れていることがありました。彼の素晴らしい思想や、それを可能にした潤沢な「有閑時間(スコレー)」が、実際には「奴隷制度」によって担保されていたという歴史的な条件について、ころっと忘れていたのです。アリストテレスは『政治学』のなかで、明確に奴隷制を「肯定」していました。ソクラテスが毒を飲まざるを得なかった背景も含め、こういう事実はマルクス以降の視点として、冷静に理解されなければなりません。しかし私がそれ以上に危うさを感じるのは、こういった忘却や歴史的前提のさらに奥に潜む、もう一つの構造です。それはアリストテレス倫理学の根底にある、「目的論的世界観」が孕む、「還元」というものの罠です。
『ニコマコス倫理学』で、彼はこう説きました。
“Every action and decision seems to aim at some good.”
(あらゆる行為と選択は、何らかの善を目指しているように見える)
「目的=善=完成」というこの美しい補助線は、西洋思想の骨格となった一方で、残酷な排除の始まりでもありました。「すべての行為には目的(善)がある」と定義した瞬間に、「行為そのものの無意味さ」や「偶然の幸福」、あるいは「救いようのないお馬鹿さん」(プルースト)といった、割り切れない人間の生が構造上すべて切り捨てられてしまったからです。この体系は、裏を返せば「人生の意味を外側に設定しなければ、倫理が立ち上がらない」という構造でもあります。「なぜ善いことをするのか?」と問えば「幸福のため」と返り、「なぜ学ぶのか?」と問えば「徳を高めるため」と返る。この目的の連鎖のなかでは、行為そのものが、ただそこに立ち現れる「存在の現象」としてそのまま肯定される余地がありません。常に「その先にある目的」のために、行為の価値が事後的に回収されてしまう。これこそが、「倫理が何かに還元されていく」最初のフォーマットでした。
この還元の構造は、時代を超えて姿を変えながら、繰り返し変奏されています。アリストテレスが「エウダイモニア」という目的へと行為を還元し続けたのに対し、カントは単純な目的論的世界観を吟味しつつも、価値の根拠を「真善美」という、純粋な動機へと置き直します。そして現代の経営思想や自己啓発は、その動機さえも「成果」や「パフォーマンス」という尺度へと翻訳していきました。もちろん、それぞれの思想は歴史的背景も問題意識も異なり、単純な系譜として理解できるものではありません。しかし、「行為をそれ自体としてではなく、何らかの究極的な価値へと回収する」という還元の形式は、その都度異なる語彙をまといながら、あらゆる歪みを矯正し、こんにちまで綿密に受け継がれてきたように私は思います。倫理は「善」へ、倫理は「動機」へ、そして倫理は「成果」へ。。その意味では、今日的な意味においての実用書などに見られる「倫理が完全に実用(ツール)へと変換された最終形態」も、まったく新しい現象ではないように見えます。「目的によって行為を測定する」という還元の構造は、形を変えながら、いまなお私たちの思考の深い場所で働き続けているのです。
『美を意識して作られたものよりも、ただ健やかに生きるために作られたものの方が、なぜこれほどまでに美しいのか。(…)そこには誇るべき固有名詞はなく、ただ生活の営為そのものが静かに呼吸している』(柳宗悦)
そういう感覚の行き場のなさに対して、たとえば私にとって柳宗悦のいう「民藝」の世界の感覚は、なにかのヒントになります。民藝(無名性の世界)では、個人の固有名詞や単独性の過剰な発露はすとんと抜け落ち、ただ「用の美」が残ります。美しさという目的から逆算して作られたものからではなく、使うことの中から、結果として美が現れてしまう。そこに立ち現れるのは、計算されたバランスとしての感覚ではない、矛盾を抱えたままの中庸、いわば“非均衡の中庸”です。この感覚をもし日常の言葉に翻訳するなら、「平常」だとか、「生活」だとかいうことばになるでしょう。このしゅの目的からすとんと抜けた感覚というものは、とても貴重なものです。人は永久に到達しない究極の「目的」を求め、その影の中で消耗し続けているように見えますが、本来私たちの目の前にあるのは、それがどこに繋がるかを超えた「行為そのものの倫理」、あるいは「目的に還元されない倫理」の気がするからです。それは表層的な「意味」という言葉程度では到底還元しきれない、確かな手応えを伴った現実のことです。
私個人のことで言えば、このあたりの何かが、コーヒーの仕事という生業とどこかぶつかり、いつも手が止まります。季節柄外はわりと汗をかくくらいの感じなのに、高温多湿を避けた保管庫にあるコーヒー生豆の麻袋に手を突っ込むと。。かすかにどこかひんやりとするその緑色の生豆があるのですが、その手触りを感じたままかすかに手を止めてしまいます。そういうとき、自分はコーヒーの仕事というものを。。というか、ことばにはできないような気持ちになります。
