店主です。
そこまでなにかを思ったというわけではなかったのかもしれないけれど、(ある夜に)いくらかコーヒーの言葉を共有できない場面に立ち会った気がしてしまって、いつもより眉間にしわを寄せながら腕を組み、首をかしげて止まっていたことがありました。そういうことが、何日か前にありました。こういうことは、あきるほどの繰り返しのように、いままでも何度もあったというふうにも思いましたが。。腕組みをしたまま考えていたのは、はっきりしないもの、わけのわからないものがどんどんなくなっていく(気がする)世の中で、単純な明快さの倫理ではこぼれてしまう何かがあるように思えること、そういうなにかに関わる考えのことです。しかし、それで終わりだったということもなく、すっかり周囲から切り離された気分でいた考え事の人は、とんでもない方向から「とんでもない言葉」で自身のことを呼ばれてしまいます。それがはたして自分のことだとわかるまで、(ばかの見本のような顔をして)、その(わたしに向けられた)「呼び方」を、三度も聞き直してしまったほどです。そのことがきっかけなのか、どういうわけなのか、ひどくやるかたない脱力感を含んだ業務終わりにまた、深く落ちるようにある本を読んでしまい、家に帰るのが圧倒的に遅くなったりしてしまいます。
『一つの時代の歴史的な意義は、その時代に流通していた新しい語彙の領域と質、そしてその配置によってほぼ決定されます。事実上、人類は、それぞれの時代に、それまでにはなかった概念や原書を、それにふさわしい単語として社会に流通させてきました。それが文化的なものであれ、科学的なものであれ、あらゆる時代は、歴史が必然化する新たな概念や現象の出現と、それにつれて粒子する一連の単語によって定義されているといっても過言ではありません』(『言語の歴史性』)
スペシャルティなんとかだとかコモデティのなんとかだとか、そういうことばたちが交わされる「やりきれない領域」(プルースト)に一抹の視線を送るまでもなく、多くの人たちが(わたしもふくめて)ことばの意味を、なにか固定化したものとしてとらえている側面があると思います。ただ、ことばに関しては(わたしは)思うのですが、単語を覚えることがうまかったりだとか、言われることがらとの付き合い方が熟達しているだとか、そういうこととはまったく関係のないこととして、結局それがどう機能しているのか/どこから生まれて死んでいくのか/を見ることが出来なければ、何も知らないことよりもはるかにまずいような気がしてしまいます。言語の物質性を強調したところで(フーコー)、単語を代入可能なものとして構造を解体したところで(デリダ)、次々に新たなことばが入ってきてコンテクストの意味が保持されてしまう(ド・マン)というのは、近代言語学におけるエアポケットでした。もしこう言ってよければ。。(つまり)つまるところ自分がプルーストに惹かれたのは、この「空白に向けた視線」だったのです。『読むことのアレゴリー』に目を通したあとで、自分はそのことを痛切に感じました。
『中国では峠を「たわ」または「たを」といい、その大部分は「乢」の字を当てている。乢はいわゆる鞍部の象形文字で、峠の字と同じく和製の新字である。内海を渡って四国に入れば、「たを」とは言わずに「とう」と呼ぶけれども、「とう」はまた「たを」の再転に相違ない。土佐の国中から穴内川の渓へ越える繁藤に、肥後の人吉から日向へ越える加久藤は、共に有名な峠であるがこの藤もまた「たを」であろう。「たうげ」は「たむけ」より来た語だというのは、通説ではあるが疑を容るる余地がある。行路の神に手向をするのは必ずしも山頂とは限らぬ。逢坂山は山城の京の境、奈良坂は大和の京の境であるから、道饗の祭をしただけで、そこが峠の頂上であったためではなかろう』(柳田国男『乢に関するニ、三の考察』)
もうひとつ、わたしは一年以上前から死ぬ間際の坂本龍一が柳田國男の読解にこだわったという(曲解の)エピソードを、何かものすごいもののように抱えていました。それは石原慎太郎が死ぬ間際に柄谷行人を読みふけっていただとかいう全身が脱力しそうなエピソードとは、根本的に違うなにかだったのです。柳田のことでいうと(これはわたしの誤読の可能性も大いにありますが)、総体(物語)における「単語」が代入可能なものであるというよりも、単語のひとつが総体(物語)をこえるような過剰な物語性をはらんでいると析出する彼の姿勢が、----構造だとか、意味だとか、真実だとか、神だとか、(脱出不可能な)独我論だとか----、固定化されたものごとに対する、強烈な揺さぶりに思えたのです。ひとつの自明のことばを「起源の起源」(漢語)まで遡行し、粘り強く成り立ちを解析し続けると、その道筋がひとつの物語になっていくのだというように。つまり、分別としての「単語」の集められたものが「物語」なのではなく、「単語」のひとつひとつが「物語」である。そういう可能性があらわれてくるのです。こういうやり方の前では、「単語」(主語、主体)がどういう意味かを素朴に問うことも、(「生」だとか「死」だとか)ことばの意味そのものを盲信することも、ともにナイーブなアプローチであることはあきらかです。ここには、なにかがあります。なにか、とても見逃せないものがある気がします。。(坂本龍一氏のことで言うのであれば)、柳田の揺さぶりには、固定化されたものに向けられたある救済のようななにかが感じられるのです。
『広い道路にでた。指を切る必要などないと思った。彼方からタクシーがこちらに走ってくる。タクシーが近づく。どこへ行きますか、とっくに死んだはずの運転手がそう聞くかも知れない。ホテルまでと告げよう。ホテルに辿りつけたら、部屋に入り、眠剤の封を開ける。飲むか、飲まないか、そのとき決めればいい。いずれにしろ、現実に戻れるかどうか、考える必要はない。現実とは何か、はっきりしない。はっきりしないものには意味がない。現実には、意味がないのだ』(『失われているもの』)
「コーヒー」でも「現実」でもなんでもいいのですが、それが後から見出されたはっきりしないものでも、後から見出されたとはっきりしているものでも、ことばでただそういうだけでは言い留め切れないなにかが残ります。「ことばは自らがなにに関わっているのかをことばで言うことができない」(『読むことのアレゴリー』)というのは、そういうことです。なので、「コーヒー」というものもそれがなにかだとかそれがなにに関わっているかだとかは、ことばでいうことはできないのかもしれません。かりにもしうまく言えたとしても、やはりただそういうだけでは言い留め切れないなにかが残ります。そうです。そこには、何かが残ります。淹れ終わったコーヒーのカスだとか、焙煎で燃え残ったチャフだとか、せつない気持ちになる給与明細だとか、そういうものが、たしかに残ります。もしかしたら、何も残らないかもしれません。死んだあとと同じように、何も残らないかもしれません。しかし、死んだあとと同じように、何かが残るかもしれません。
この文章も結局何が言いたいのかわからないところがあるし、----というか「コーヒー」をはじめとしてなにもかもはっきりしないこういうものたちに自分は現状も絶えず苛立っているけれど----、自分はこういうものがはっきりしていたら、とうの昔にコーヒーの仕事など辞めているよなとも思うわけです。