本を読んでいるとき、知らないうちにその読んでいるものとは違う、他のなにかのことが思い出されてくる。。そんな経験はないでしょうか。そんなことが「あるかないか」どころか、自分の場合にはいつもそんなことばかりで、読書をしていると、(そしてそれを中断などすると)、対象に集中できているかどうかがよくわからない、ぼおっとした気持ちになることがあります。そんなわけで、自分は日本のある宗教家の書いた、大変緻密な事柄について書かれた素晴らしい本を読んでいたのに、そこに書かれている内容とは違うもの(書かれている内容の一部が、別のかたちで自分に重なってしまっていたのは驚きでしたが)、それとは違うなにかのことを、ぼんやりと思い出していました。ちなみにそのとき読んでいた本の内容は、こんなものです。
『小学生の子どもたち向けに話をすると、私の話に没頭できない子どもたちが五%くらいいます。集中力がないのではありません。どうやら、話にのめり込んで我を忘れるのが怖いらしいのです。「ある侍が極楽と地獄について質問しようとお寺に行きました」と話しはじめると、一人の子が両隣の子に「『ある侍』ってだれだよ。宮本武蔵?」と見解を述べて、自分はそんな話には飲み込まれないぞ、一歩引いて聞いているぞとアピールします。学芸会などの劇中で息を引き取った人を演じている子がいると「あっ、死んだのに胸が動いているから、息してるしィ」と周囲の注意を引き、王さま役の子が「エッヘン」と咳払いすると「今どき、エッヘンなんてだれも言わないよ」と嘯いて、劇を楽しむ観客にならずに、客観を保とうとします』
こういう子供はよくいます。よくいるというか、思い返してみれば自分も(子供ではないけれども)こういう状態になっていることはあるし、こういう状態になっている大人も、時折見かけることがあります。総じて(自分はそうではないけれども)利発といえるようなタイプのひとこそ、このような状態になる可能性があるという言い方もできるかもしれません。児童心理学に精通した人によると、このようなタイプはいくら頭の回転が良くてもまだ自我が確立していない状態であって、「我を忘れて没頭してしまうと、自分がなくなってしまう恐怖を抱いている場合が多い」というふうに、著作では続いています。それはつまり「何かを受け入れる勇気がないので、心を別の場所に移動させて自分を守っている状態」です。
『こうした心理は大人にもあるようで、私はそれを「必然」という言葉に感じます。「これは必然だ」「あの出会いは必然だった」と熱っぽく語る大人がいます。 彼らは、自分に都合の良いことだけを「必然」と呼びます。道路を渡ろうとしたら赤信号になった、ランチを食べようと思ったらレストランが混んでいて別のお店に行ったことなどは必然と言いません。渡ろうとしていた信号の向こう側に車が突っ込んで命拾いすると「信号が赤になったのは必然だった」と言います。入ろうとしていたレストランで食中毒が起これば、あの時別の店に行ったのは必然だったとなります。そんな考え方はズルイと思います。すべてを偶然として受け入れ、没我する勇気がないのでしょう。神の采配のようなものがあるというロマンに逃げている気がします。 多くのことは、たまたま縁が揃ったという偶然の産物です。その偶然を楽しみ、感謝する勇気があれば、必然や運命や神さまを持ち出さなくてもいいでしょう』
自分が気になったのは、忘我や没我という概念がある人にとってはほとんど死と同義語であるということ、そしてそれについては、年齢というものは関係がないということでした。かくいう自分も、没入感に対してはなにか気持ち悪いものを感じてしまうタイプです。それはもちろん自分のことだけではありません。まったく違う切り口から話をすると、カフェ開業希望者のなかで、こういうものの心理を丁寧になぞりつづけている人がいます。つまり、ああでもない、こうでもないと、目の前にあらわれる状況にひとつひとつ構図をつけて、行動の手前に置かないと気の済まないタイプの人間です。こういうタイプの人が、お店をスムーズにはじめることはほとんどありません。ああでもない、こうでもない、それはそうかもしれないと、目の前にあらわれる状況にひとつひとつ構図をつけているうちに、現実の状況が変わり続けてしまって、それをまた一から構図に描き続けるというふうに、(頭のなかでしていることに対して)永久に終わりがなくなってしまうからです。くわえていえば、こういうタイプの人が、お店をスムーズに運営しつづけるパターンも、けっして多い印象はありません。
『かつては、意味は集団の内部にあり、自己表出することはなかったが、現代では意味は集団の中になく、世界の中にもない。すべての意味は個人の中にある。そして、その意味も完全に見失われている。そのため、現代人はどこに向かって進めばよいかわからない。自分を駆り立てるものが何かわからない。世界宗教であっても、この問題を克服する力を持っていない。世俗国家が世界を征服したことにより、あらゆる宗教団体が完全に二次的で無力な存在になった。いまでは人間そのものが最高の神秘であり、かの超越的存在となった。利己主義は人間と折り合いをつけねばならず、自我は人間を通して十字架にかけられて復活しなければならない』
ロロ・メイ(アメリカの心理学者)の本など、現代日本で読んでいる人などあまりいないと思いますが、還元主義の行き着くところまで行き着いた大規模集積言語モデルでは決して構図化しえないような「どもり方」でしか言えない、そんなことばに貫かれたかの本に対して、おそろしく切れ味の鋭い評論で付されていたのが上の文章です。自分はこれらのことばの意味が、痛いほどよくわかります。「利己主義は人間と折り合いをつけねばならず、自我は人間を通して十字架にかけられて復活しなければならない」という意味が、痛いほどよくわかります。それは自分ごととしても捉えられるし、いまでもコーヒーの仕事をはじめたい人と会うたびに一度は感じられる感覚、「自分がなくなってしまう恐怖」を前に、どもることしかできないある感覚のことなのです。