それが必要かどうかはよくわからないし、どう考えてもあまり効率的ではないのだけれど、脈々と続いていて、形としてわずからながらどこかに残っているものがある。このあいだ「和錠」の話をしたとき、なんということもなしにそんなことを考えていました。岐阜県加茂郡の知り合いのコーヒー屋さんと、今となっては珍しい、古い家にある「ぐるぐるするタイプの鍵」の話をしたのです。「ぐるぐるする感覚」、「でも最後にきちんと閉まることがわかっていて、信頼がある」。その人との会話自体、自分にはなにか、その鍵を閉めたり開けたりするときの感覚にちょっと似ているところがあります。
何を隠そう、わたしの実家も同じ岐阜県加茂郡の古い家だから、いくつかの場所に「和錠」があります。鍵の形状は円状で平たく、閉めるのにとにかく時間がかかるけれど、この鍵を見ると、なぜか癒されるところがないでしょうか? うまく言えない、癒しの感覚です。真鍮の丸い鍵をぐるぐると回して、最後に「ぎゅっ」と閉まる。音も感触も、どこか不思議と懐かしくて、ひと呼吸間を置くような感じ。まったく個人的な心情にもとづいた個人的な感覚ですが、まるでその一連の動作が、ただ「鍵を閉める」以上の意味を持っているような気がします。効率という意味では、どうしてこんなに時間をかけてぐるぐるしなければならないのか? 正直にいえば、よくわかりません。けれど、ぐるぐる回しているうちに、何かが静かに整っていくような、「間」があることはわかります。「鍵を閉める」以上の意味、ひとつの扉を閉めるあいだに、自分の心もきちんと閉じているような感じです。現代の暮らしの中では、「時間をかけてきちんと閉める」ということをする機会がどんどん減っている気がします。それはまるでひとつの出来事が終わる前にものごとが次々と現れ、感情が片付けられないまま流され、始末がつかないまま心が開けっ放しになっている感じに思えるものです。さっさと閉める。さっさと閉められる。その価値観だけが至上のものであれば、こういうタイプの鍵は、真っ先に淘汰されていたでしょう。しかし自分がここで書きたい内容は、物事のあるひとつの側面のみが取り出され、そこに価値が与えられることへの疑問でもあるのです。
『サイフォンには他の抽出器具にはない魅力があります。それは視覚的な効果です。器具の形もユニークですが、火を止めたら後のコーヒーが一瞬で濾過されていく様子は何度見ても飽きません。最近では熱源としてハロゲンランプが使われることも増えており、光による演出効果は抜群です。これもコーヒーのおいしさの一つだと思います』(『コーヒーこつの科学』)
コーヒーも飲み物単体として取り出されると、狭量な感じが生まれますが、おいしさはもちろんそれだけには止まりません。あらゆるものがそれ単体で存在しているということはほとんどなく、それについてくるなにかによって、感覚や価値というものがふくらんだり、しぼんだりする。そこには「間」があったり、それをとりまいている、いくらかの「状況」があります。そういうものをすべて捨象してしまうと、わかりやすくなったようでかえってどこかぼんやりしてしまうし、結果よくわからなくなってしまう。そして、独善的になっていきます。
自分が飲んでいるコーヒーの手を止めて考えるのは、人が心のなかに何かを迎えるときのことです。それを和錠にかけて考えてみると、ただ扉を開けたり閉めたりするという行為に、大切な比喩が含まれている気がするのです、あのぐるぐるする意味や、何かを開けるときの少し重たい手応えも、「これから何かが終わったり、はじまったりする」という気持ちの準備になっているような気がするのです。心も同じで、何か新しいものに触れるときは、少しずつ回しながらぐるぐると開けていく。そんな時間が必要なのかもしれません。