コーヒーを飲みながら、セオドア・レビットの本を読んでいました。
レビットといえば、きわだった「経営学者」なのにも関わらず、カントやフロイト、マルクスやドストエフスキーなどといった作家ばかり引用しているので、自分はずいぶん昔から「なんとなく変なおじさんだな」と思ったものです。それでも自分の年齢が次第に「変なおじさん」になってくるにつれて、こういう感想は少し、変わって来ます。というのも、ある瞬間にコーヒーを飲む手を止めた自分は、20世紀後半に息絶えたポスト構造主義以降の「哲学」は、経済理論との分断から融合回帰し、むしろ急速に「経営理論」として花開いているような見え方がしたのです。
いうまでもなく、デリダやフーコー、ラカンやリオタールといった思想家たちは、「普遍的な価値」や「大きな物語」を疑い、社会の中にある構造や制度を解体し、個人のあり方や権力の見えにくさに、はっきりとした光を当てました。(あるいは、おそるおそるといった光を当てました)。こうした批判は、それまでの「当たり前」を揺るがす、おそろしく重要なものだったと思います。しかし、その先に残されたのは「では、どう生きたらいいのか」という問いに対して、答えがないという“空虚”だったのです。
われわれは確かに、構造や制度の虚構性は見抜けるようになりました。しかしそれでもなお、人々は「いまをどう選ぶのか」「何を信じて生きていくのか」という問いを抱えたままでした。そのような時代の中で、セオドア・レビットがなぜ「経営理論」の枠組みで哲学や文学を語り続けたのか、自分はうまくいえないのですが、そこには人びとがもう一度批判的「想像力」を捨てて、「現実」に返ろうとしたことに関わりがある気がします。ウォーラーステインは『世界システム論』の中で、ポスト構造主義の視点を引き受けながらも、あえてマルクス主義的な経済構造を語り直そうとしましたが、その辺りはまさに当時の空気感をあらわしていないでしょうか? デリダが『グラマトロジーについて』の中で言おうとしていたこと(全体の中の主体、固有名)は、ウォーラーステインのような言い方(全ては「商品」である)でしか「現実」には回帰できなかったのでしょう。実際、現代社会では「全ての固有名」は「商品」的側面を持ち、ほとんど誰もがそこからは逃れられません。同じ頃ゴダールは「想像力を失った人々はいつも現実に逃げ込む」(『映画史』)と言いましたが、このことを極めて皮肉でいうならば、おそらくそういう言い方になるのでしょう。ポスト構造主義のように「全体語り」の徹底解体はもはやできず、古典マルクス経済学のような「労働価値」や「階級闘争」にも還れない。現実は、デッドエンドである。つまり、(私なりのまとめでは)、経済構造を語りながらもそこには絶対化し得ない「中動態的な理論」としての「経済(Economics)」と「経営(Management)」のキャズムがあり、ウォーラーステインのような「より動的」で「流動的」な「システム」としての経済の描写は、そこに生きる個人がどう選ばれ、あるいはどう選ぶのか、という問いに近づいていました。(というかむしろ、それしか残らないところまで行ってしまっていました)。
21世紀に入り、私たちはもはや国家や宗教、あるいは共通の制度のような「よりどころ」を持ちにくくなりました。社会の中にあった「抑圧する構造」は多くが明るみに出てきましたが、それが終わりではありません。むしろ今、問われているのは、「それでも、どう生きるのか」「なぜ、その選択をするのか」という、個人の内側から出てくる倫理の問題です。
このタイミングで急速に浮かび上がってきたのが、「経営の理論化」という領域でした。
それは売上やコスト、競争といった“企業のための技術”のようなイメージをこえて、「不確実な状況の中で、どう意思決定するか」という問題の答えとして――、つまり“選択の倫理的技術”として、生まれ変わりつつあるように思われたのでしょう。少なくとも、セオドア・レビットはそのことに気づいていました。経営が単なる技術ではなく、むしろ「個人がどう生きるか」「どんな価値観を選ぶのか」といった、深く倫理的な問いとつながっていることは、ここまで私が(一気呵成に)書きまくっている20世紀思想の「実践的帰結」として、現在最も洞察が求められている領域ではないでしょうか。
たとえば『世界史の構造』や『力と交換様式』の著者は、最もアップデートされたある発言の場所で、「マルクスを自己啓発書のように読む人がいる」と、皮肉交じりに語っています。このことばの痛烈さは、発する人の重みに加えて、現在までの考察の中で捉え直したときひどく象徴的なものです。思想が表面的な“成功哲学”にすり替えられることには注意が必要ですが、一方で、「思想は制度批判でなければならない」という考え方も、「思想を個人の実践に援用するのは浅い」という考え方も、同様に強く吟味されなければいけないものです。なぜなら社会制度が不安定になり、「共通の物語」が弱まった現代こそ、思想は「個人の生き方」に寄り添わなければ意味を持ちにくく、制度ではなく自分の選び方そのものを支えるような思想こそ、現代を生きる人々が求めている気がするからです。ポスト構造主義が「主体(全体)」を解体し、経済学が制度や構造を分析し尽くしたあとに残されたのは、「私たちはどう選ぶのか?」という問いでした。そして、この問いに応答する形で、経営という分野があらたな「倫理の場」として立ち上がってきているように私は思うのです。経営は事業体運営の手法であるばかりでなく、「どうありたいか」「何を大切にしたいか」という個人の美意識や価値観の選択と深く結びついてきており、それ自体が全く新しい、「倫理的実践」の最前線なのです。
「古い哲学」を引用するなら、アリストテレスがかつて語った「フロネーシス phronesis(実践知)」のように、日々の選択を通して、自分のあり方を探る行為こそが、まさに現在の「経営」の本質に近い言葉なのかもしれません。宗教や国家が語りえなくなった時代に、私たちは「善く生きること」を、それを経営という言葉を通してもう一度語り直そうとしているとしたら、それは単なる「自己啓発」にはとどまらないでしょう。むしろそれは構造の影を理解しながらも、自分の手で選び続けることの難しさと尊さを受けとめる、「新しい倫理の形」です。効率や成功を求めるのではなく、自分にとっての意味や納得のために選択をする。「経営」という言葉を通して、私たちは“善く生きる”という問いに、もう一度正面から向き合おうとしているのではないでしょうか。