店主です。
以前、このブログにも書きましたが、一昨年某ビジネスサポートセンターさんの手引きで、コピーライターの小澤ナオヒトさんと対談したのは、転機とは言わないまでも、自身の思考のあり方を見つめ直す良い機会でした。わたしは件のダイアローグの場の冒頭で、小澤氏から「あなたの好きなコーヒーはどういうコーヒーですか」、と聞かれ、(自分でも驚く速さで)即答したのです。
「わたしの好きなコーヒーは様々です。ひとつには絞れません。しかし、嫌いなコーヒーはひとつしかありません。それは自分の作るコーヒーだけが、特別だと思っているようなコーヒーです」
小澤氏は、それを「俺俺コーヒー」と名付けました。
わたしは岐阜新聞の連載にあたって、カフェ・バッハについて書くことを柱軸に据えましたが、そのために田口氏の著作を読み返したりということはとくにありませんでした。それよりもあらためて思ったのは、コーヒーという飲み物はその性質自体、独自性が高すぎるため、ふつう自然だと考えられていることが、とても不自然にあらわれるということです。つまり、人が当たり前のように表現の先にあるものとしてあらわす「独自性」というものが、コーヒーにはまったくあたらないどころか、自明以前のものとして存在しているということです。だから、わたしは「コーヒー」と「表現」ということをすぐに言う人を、とてもまともに見つめる気にはなりません。
田口氏は、そうではありませんでした。ほとんどの人が独りよがりに、無頓着に、その性質からくる独自性を「自己表現」と呼び換えているあいだに、本質を理解し、原理的に「王道」であることを抽出したのです。そして、転じてそれは、何よりも「独自性」の高いことでした。
わたしがバッハグループに入れなかったのは、出自もありましたが、一連の「王道の抽出」をあまりに無邪気に「表現」として捉えているまわりの空気に、とてつもない違和感があったからだと思います。出自がなくても、来歴は変わらなかったと思います。いまでもわたしが考えていることは、このあたりをめぐっています。それはもちろん、自身のコーヒー屋としての立ち位置もふくめてのことになると思っています。