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カフェと原エクリチュール

Posted: 2023.05.21 Category: ブログ

カフェと原エクリチュールイメージ1

店主です。

少し前の数日の間に、個人事業をやりたいというような人たちと一気に出会い、何かを話したりする機会がありました。わたしはとりわけ特別なことを誰かと話しているという感じはありませんでしたが、いくらかの人たちの話を聞いているうちに、あるフランス人文筆家の手による『グラマトロジーについて』という本を思い出していました。『グラマトロジーについて』の中に書かれている「原エクリチュール」(アルシエクリチュール)という「書き込みの魔力」とでもいうべき現象が、わたしをはじめ、話しをしに来るひとたちの心の中に、あるいは印象的な物事の見方に、微妙な影を落としている気がしたのです。この微妙さは、いくらか奇妙な感じがします。もちろん、話している事から書き言葉(の魔力)を取り出すことなど、それ自体どこか奇妙な話だし、『グラマトロジーについて』の著者自身、そのような場所で面白がってとぼけていたということもあったと思うのですが、わたしがぼんやりと構図的に問題にしたいのはそこではありません。「構図的」といえばクロード・レヴィ=ストロースへの言及として、『グラマトロジーについて』の中で、あるひとつの引用を目にすることができます。『悲しき熱帯』の、このような引用箇所を目にすることができます。

『ある日、私が一団の子供たちと遊んでいたとき、一人の女の子が仲間にぶたれた。彼女は私のそばに逃げてきて、全く事情がのみこめない私の耳に何かをささやきはじめた。私は何のことかわからず、何回も彼女に繰り返させねばならなかったので、この策略はついに相手の知るところとなった。相手はひどく怒り狂って、こんどは自分から重大な秘密らしいものを暴露しにやってきた。何度かとまどったり、聞き返したりしたのちに、この出来事の意味は疑いの余地のないものとなった。最初の女の子は、仕返しのために喧嘩相手の名前を私に教えにやってきたのであり、相手の方はそれに気付いてその報復として自分の相手の名前を知らせたのである』(『悲しき熱帯』)

これは固有名詞の存在しない未開社会に本当は固有名が存在していたことが、子供が著者(レヴィ=ストロース)の耳元で固有名を囁くこと=喧嘩相手に嫌がらせをしようとする過程で、あかるみになる場面です。ジャック・デリダはこのエピソードを引用して、じつにラディカルな固有名詞論を展開するのですが、もっと簡単な意味で、わたしはこういうことを思います。「固定化と分断」に巻き込まれたことに対しての違和感が端緒になりがちな「カフェ」なる事業形態の立ち上がりの場面にいて、「(固有名が書付られることで)もがくよりほかない場所に組み込まれる」というデリダの論説と現実が重なってくることに対して、小さく目を開くような気持ちになるのです。カフェをはじめたいという人で、(奇妙ですが)自分のお店の名前をつけられない、という人がいます。これは本当に奇妙なことですが、同時にこれほどまっとうな問題意識もないような気がします。組織の歯車のひとつでしかなかった場所への苛立ちから、個人事業主へ向かうひとであれば、このしゅのとまどいはもはや矛盾を孕んだ通過儀礼です。ただしこれは単純にそのこと限りの問題ではないのかもしれません。なにかから逃れようとすることは、なにかから逃れられないということでもあるのです。

『われわれはここで、この禁止の敬虔的演繹という困難な問題に立ち入ることはできないが、ア・プリオリに知られることは、レヴィ=ストロースがここでその禁止と暴露について述べている「固有名詞」なるものは固有名詞ではないということである』(ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』)

デリダがその問題に関していうと、こういう感じになります。彼はここからゆるやかにルソーに移動するのですが、わたしはその意味がしばらくよくわかりませんでした。しばらくというか、20年くらいはよくわかりませんでした。色々な本を読みましたが、よくわかりませんでした。しかし問題はフレーゲやラッセル、クリプキのいうような「固有名詞論」的なことではなくて、「命名的な言説」(ルソー)についての、あるいはそういう物事に関する、ある種類の魔力についてことだったのです。そのことがようやくわかりかけてきたのです。デリダが問題にした、(固有名がつけられることで)自分が知らないうちに固定化と分断に巻き込まれ、もがくよりほかない場所に組み込まれるということ、そのことはしかし、(われわれにとって)あまりに見慣れた現実ではないでしょうか? 店名をつけた瞬間、ビッグデータにより衆人環視の場に放り込まれ、不特定多数の人たちにことばを投げられることに恐怖を感じるというカフェ開業志望者の発言などは、まさにこの部分に関わっているものです。では、個人事業から取り出される概念に、単語のひとつ以上の意味は無いのでしょうか? (勤め人などに代表される)「固定化と分断」から逃れようとした人が、本質的にそれ以上のなまなましさを含んだ逃れがたい構図の中に放り込まれる顛末以外の、なにかはないのでしょうか? おそらくデリダがルソーに見ていたものが、このあたりに関わって来ます。あのどう見ても「政治的に混乱した」「パラノイア的仕草の人」(ド・マン)という印象を禁じ得ない『社会契約論』の著者が書いていることの中に、このあたりに向けた救済が含まれている気がするのです。それは(デリダだけでなく)ポール・ド・マンの言うように、『第二論文』(ルソー)の中での「命名的な言説の物語論」に関わってくるものでしょう。ルソーが「命名的なもの」に見ているなにかは、たしかに救済のエクリチュールがあります。「命名的な言説はいつも物語的」というあのあたりには、たしかになにか、救済のエクリチュールがあります。命名的なディスクールは、言語の「固定化と分断の問題」(坂本龍一)がもろに関わっているにも関わらず、「命名的な言説」こそが、ただ唯一「物語」(ルソー)になるのです。それは階層秩序崩壊のさなか、『エミール』の著者による政治的に混乱した言い方によって「理想」だとか「希望」だとか「イズム」だとか言う(一般名詞的あるいは概念的な)ぼんやりしたものに回収されてしまいましたが、本来はなによりも個人が所有すべき、大切なよすがだったのです。そしてそれは、個人的な物事の中に「物語」を探す、小さくても確かな魅力のようなものを見つける、寓話的態度だったはずです。

しかし、この「物語」ということばも危険すぎて、わたしにはこれ以上なにかをいえる感じがありません。ルソーの(あるしゅの)いかがわしさは、危険すぎるものとの戯れから来ているのです。理想とは、それ単体として眺めるにはあまりに危険ななにかなのです。デリダもそのことをよくわかっていました。たとえば『グラマトロジーについて』でいえば、あの書に通底するソクラテス的感覚は、透徹した世界をあらわしています。それはつまり、希望を理解した人間が希望を語る時、ほとんど汚名を着せられ、毒をあおるような出来事に肉薄する感覚のことです。このしゅの感覚は、いたるところにないでしょうか? ソクラテスのあおった毒には、「両面的価値」というような言葉が付されていたはずです。なんとかだという、毒と薬を両方いっぺんにあらわすようなことばが。。わたしはそこで、始業の時間になり店先に立ちますが、自分の淹れているなんとかだとかいう茶色のお湯のような液体が、ソクラテスのあおったものに重なって見えてきます。おや、という風に思います。それはパルマコン的というよりは、こういう理由からです。身体に向けられた生理的効能とは無縁のかたちで、ソクラテスはたぶん、自分の飲んだものを、ただのお湯だとか水だとか思っていたはずなのです。わたしはいくらか同じ気持ちで、淹れたものをくちにふくみます。

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