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コーヒー哲学序説

Posted: 2021.07.16 Category: ブログ

コーヒー哲学序説イメージ1



店主です。

最近あまり長い(難しい)文章書かないね、とある人から言われて、そのことを考えました。たしかにわたしは、コーヒー屋のブログにはまったくふさわしくない、よくわからないものを書き連ねていました。それをきっかけとして、えげつないデリディアンに背中を撃たれたり、少なくない「問題」が発生していたのは事実です。しかし、わたし個人としては、何も書けなくなったというわけではありません。むしろその反対で、書いているものの長さが、このような場にまったくそぐわないものになってきていたのです。。ですので、いったい何の役に立つかはわからない色々な書きものは、どんどん積み重ねを見せています。そしてそれは、読む行為においても何も変わりはありません。

先日は寺田寅彦氏の随筆を読んでいたのですが、その中でふと考えたことがありました。古い本、ずいぶん古い作品のひとつですが、タイトル(『コーヒー哲学序説』)に何やらとても惹かれたのです。しかし、読み進めてみればみるほど、タイトル通りの中身というふうには、わたしにはあまり思えませんでした。随想の題目を文節に区切ったときにあらわれる容赦のない三語(「コーヒー」、「哲学」、「序説」)について書いてあるというよりは、たんに「自分」(寺田氏)の身辺記事をまとめてある秀才風の書き物と言った域を出ないもので、まさに「寺田虎彦」といった風の書き物だったのです。もちろん、内容が面白くなかったわけではありません。むしろ、とても楽しく読めました。

『自分はコーヒーに限らずあらゆる食味に対してもいわゆる「通」というものには一つも持ち合わせがない。しかしこれらの店のおのおののコーヒーの味に皆区別があることだけは自然にわかる。クリームの香味にも店によって著しい相違があって、これがなかなかたいせつな味覚的要素であることもいくらかはわかるようである。コーヒーの出し方はたしかに一つの芸術である。』(『コーヒー哲学序説』寺田寅彦)

この随筆は、寺田氏が30歳をすっかり過ぎたあとで、ドイツ・ベルリンのノーレンドルフ(ガイスベルク街)の年老いた陸軍将官の未亡人の元に下宿した際「よいコーヒー」を飲ませてもらった時の、ものうい記憶がはじまりとなっています。当時はまだ1900年になってから、それほど時が経ったわけでもない頃ですが、このころのドイツコーヒーの形容に「よいコーヒー」(原文ママ)という表現が使われていることに、わたしは少しだけ目を大きくしました。なぜなら、その言葉は、わたしは出自に引かれる形でいつも相対していたものでしたから。しかし本当に想到したことは、そのことではなかったのかもしれません。繰り返しになりますが、そもそもこの本を手に取るときにあった気分は、「コーヒー」と「哲学」、そして何より「序説」、という語についての、何からはじまったのかわからない思案でしたから、そのようなものを忘れかける程度にはわたしは寺田氏の文章に吸い込まれていたのかもしれません。

ちょうど同時期に、わたしはジル・ドゥルーズの『哲学とは何か』を読んでいました。ドゥルーズは、その中で、哲学というものについて、積極的な言及はできなくても、こういう言い方をしていました。

『わたしたちには、少なくとも、(哲学がなにかはわからなくても)、哲学がなにでないかはわかる。哲学は、観照でも、反省でも、コミュニケーションでもない』(『哲学とは何か』)。 

この文章にある「哲学」という語の部分をそのまま「コーヒー」という語に置き換えたとき、何を言ったところで言い当てることのできない「コーヒー」そのものについて、少しだけ何か言いとめているような気がしないでしょうか。わたしは、たまたま読んでいたふたつの本の中に、連関するものを見ていました。それは何かを積極的な言い方で言うのではないという言葉の選び方です。

しかし、コーヒーが「観照」でも「反省」でも「コミュニケーション」でもないのだとしたら。。そのようなものと、いったいどのような付き合い方があるのでしょうか? わたしはそれを、考えています。何度も何度も、一人で考えています。

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