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ジャン=リュック・ゴダールの文章

Posted: 2020.09.24 Category: ブログ

ジャン=リュック・ゴダールの文章イメージ1

店主です。


新聞の連載は、反響があります。何を書いているかわからない時もあるけど、面白い文章ですね。なんだかよくわからないけど、書かれていますね。理由はよくわからないけど、読ませますね。

色々と、言われました。


「いままで読んできた中で、どういう文章が心に残っていますか?」


ひとつ、気になったことを聞かれました。


私は、書歴(来歴)についてはいくつかのことを、誰が読んでいるのか想定にないこの場所に、(ずいぶん余計なことまで含めて)書いてきた気がします。色々と、書いてきた気がします。確実に言えることは、私は何かと相性が悪いと言えるような人生をそれほど送ってきた記憶がないと(本人は意外なほどそう)思っているのですが、確実にアカデミズムと、それがもたらすものとの関係性の中に、自分を置くことが出来ませんでした。結構頑張った記憶があるのですが、まったく出来ませんでした。私はそれを、単に(個々人の持ちうる)アナーキズムの程度によるものだと考えていたこともありましたが、それがずいぶん素朴な自己理解だと思うまでにも、それほど時間はかからなかったのです。ともかく、在野にある煩雑な日々の傍らには、色々な人たちの文章がありました。


想到したのは、ゴダールです。


『そんなことは一度も経験したことがありませんでした。歴史を持たない世界が、にもかかわらず物語ることで時間を過ごしていたのです。しかも、読むことの外部で。というのも、書くこととは、ランボーとマラルメ以来、恐怖だったからです。白い頁は敵でした。どうして、ジョイスと『ドゥイノの悲歌』の後で、さらに書かれねばならないのでしょう? それに対して、白い布の前で明かりが弱まりはじめたとき、われわれに起こったことは、ニコラ・ド・スタールを自殺に追い込んだことのちょうど逆でした』(『映画と歴史について』ジャン=リュック・ゴダール)


わたしはこの文章を読んだとき、しばらく唖然としました。明示できないものが明示されているばかりか、そのことが、完璧に消されていたからです。うまく言えないのですが、そういう感じでした。このおそろしく短い文章の中に、本一冊どころか、歴史家や哲学者、敬称を込めて呼ばれる学術的な人たちが一生かけても明示できないものの関係性が、ものの見事にするりと現れているような気がしたのです。しかもその書かれ方は、(ゴダール自身が非常に吟味的な態度を取る)年代記的なアプローチでさえなく、(人がもっとも簡単に陥りがちな)ジャーナリスティックなものでもなければ、ジェネオロジカルなのものでもありませんでした。とくに白眉なのが、その性格からして誰も明示しようがない(というか明示する意味がない)、「近代絵画」の終わりを、彼がニコラ・ド・スタールの自殺に結びつけている点ではないでしょうか。


わたしは学生時代東京でスタールの絵を見たとき、ゴダールの言いたいことが、わずかにわかった気がしました。そしてそれは、同時に差異としてのみ存在可能(ソシュール)な形で、「映画」と「そのはじまり」をかろうじて明示するための、反対側の出来事として置かれていたのです。


※新聞の連載は10月の末までの予定です。


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