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死とコーヒー焙煎

Posted: 2022.09.15 Category: ブログ

死とコーヒー焙煎イメージ1

店主です。


「酸味と苦味以外のところで、コーヒー豆の特徴がしっかりとあらわれている。そういうのが良い焙煎なんじゃないの」、という声がありました。


わたしはいつものように、ぽかん、としており、それはたしかにそうかもしれないし、あるいはそうでもないかもしれないし、と思いました。ずいぶん浮遊した感じです。コーヒー焙煎について考えているとき、あるいはコーヒー焙煎について話をしているとき、だいたいいつもそういうところがあるのです。これは永久に変わることがないのかもしれません。わたしは焙煎の話をしたり、あるいは仄聞したりというときにおいて、そのことそのものについてというよりは、どちらかといえばその作業の工程に関してのなにかの部分だったり、その過程ののちに出来上がりをみせてくる商品というものについてのことだったり、そういうものについて、ぼんやりと考えていることが多いのです。あるいは商品だとか、そういう名前の付けられたものがいったいどのように世の中に介在していくのかだとか、俯瞰したところにあるものごとについて、わざわざどいたりずれたりしながらなにかを話しているような気になってくるのです。少なくとも、過去に何度もあったものと同じように、そのときのわたしは間違いなくそういう気分でした。それがいったい何なのかわからなくなってきたところで、「結局この場にいる人たちは、自分もふくめて何が言いたいんだろう? というか、何が言えるんだろう。匹敵するもののないなにかの形合わせみたいなことをしているように思えるし。そもそも、じゃあ焙煎というのは、いったいなにに似ているのだろう?」という問いかけがこころのうちに湧いてきたところで、現実の時間には終わりがありました。


結局こんな言い方になるのでしょうか。わたしにとって焙煎をするというのは、焙煎そのものをするというよりも、焙煎に関する「すべ」を見つけることではないかという感じがしたのです。それは、全体的にここまでくちにしてきたような、微妙な言い方にあらわれているとおりのものです。拵えた苦しさにあらわれているとおりのものです。「なにか」というのが「なにかそのもの」ではなく「なにか」の「すべ」である、というようなものの言い方は、たしか『新ドイツ零年』の映画製作者が、とても巧みにくちにしていたような気がします。彼がどこかの場所で、なにかとても巧みにくちにしていた気がします。それはともかくにしても、わたしは焙煎というのがずっとなにかの気分に似ているような気がしていたことはたしかでした。それは、自分にとってそれほどたえずとなりにあるだとか、(それこそ焙煎と同じように)それほど傍らにあるだとかいったものでもなかったはずなのですが、あるとき「ふと」(といってもこういう振り返り方をしているときにたまたまそこにそういうふうにフォーカスしているだけなのでしょうが)、それが「なにか」がわかったのです。これはまったく、一般則とはかけ離れたものであるということは、くどいくらい断りを入れなくてはならないかも知れません。それはそれこそ気分そのものとして、自分は焙煎をしているときの気分が、マルセル・プルーストの小説を読んでいるときの気分にそっくりじゃないか!、ということに気がついたのです。


それは(まったくもって個人的に)ただそっくりだとかいうレベルのものではありませんでした。たしか、なのですが、(これは本当にたしかなのですが)わたしは昔『素描』という大枠のタイトルがつけられた連作の随想集で、書いているものに向けて、とある(とても洞察の鋭い)人からマルセル・プルーストの書いたものとの類似を指摘されたことがあったのです。実際、あのときは焙煎をしていたような気がしました。わたしはあのとき、新聞社から依頼があり、ある連作めいた随想を執筆した、というのではなかったと思います。あのときわたしはたぶん、文章を書いていたのではなく、焙煎をしていたのです。そういう意味ではかなり私的なものだったとしても、尊敬する某氏の指摘はあまりにもまっとうなものだったといえるでしょう。コーヒー焙煎をしているときの気分は、わたしにとってほとんど睡眠に近い何かです。そういうふうに――というか、とてもそう思います。マルセル・プルーストの小説を読んでいる感覚に近いのです。まったく個人の感想ですが、コーヒー焙煎は『失われた時を求めて』を読んでいるときに近いのです。わたしは焙煎のかたわら実際にプルーストを読んでいることもあり、そしてその行為は、完璧にそのときの気分と合致しているものです。それはごく奇妙なものです。時間が過ぎているのかもよくわかりません。そのまま意識をうしなって、永久に起きられないといった感覚に襲われることもあります。つまりほとんど死というものと同じですから、焙煎中というのは、いつも死と隣あわせの出来事なのかもしれません。あるいは、もはや死んでいるのかもしれません。焙煎は、どこか死に近い出来事です。コーヒー生豆は、種実としてはじめから死んでいます。しかし、ひとは(わたしにはそれはよくわからないことですが)それを非常に生き生きとしたことばで表現したりなどします。しかも、死んでいるものをさらに焼き殺すという過程においてだとか、あるいはその出来事を事後にたしかめるような過程において、生き生きとことばをくちにしているのです。このことは、きわめて奇妙な事態ではないでしょうか。焙煎は死と隣あわせの出来事で、そこではもはや焼き手も死んでいるのに、当人はそのことから目を逸らしているということも大いにありうるのです。実際マルセル・プルーストの小説を読みながら焙煎をしていると、あたかも死体が睡眠をしているかのような気分になります。


このことは、何の喩えでもいえません。意味が伝わらなくても、こういう以外にいえないのです。プルーストの小説にははじまりも終わりもありません。焙煎にも、はじまりも終わりも感じません。拙いような、規則的でも不規則的でもあるようななにかの継続の一端に、あるいは断絶の一端に手をかざし続けているような、ひどくばかのような気分があります。しかも高潔さもあり、同時にひどく眠いのです。はじまりが終わりでありながら、終わりがはじまりでもあるというと、それは事前でもあり、事後でもある。あるいは事前でもなければ事後でもない、というような感じにならないでしょうか? 事前(出自、根拠)というものが何なのかはわたしにはよくわかりませんが、少なくとも「事後」ではないというのは、個人的には少しだけ救いがあるものです。事後というのは、どこかいやらしいものです。扇情的な意味でなく、どこかいかがわしいものです。この感じはどういえばいいのでしょうか? それは、つまり、死という感じです。


わたしは焙煎をしているときにはやはりどこか死んでいる感じがあり、同時にそれはうそだという感じもあるので、出自だとか根拠だとか、あるいは少なくとも事後だとかそういうものとはぼんやりとした感じで離れていられるところがあります。ひどく無責任に思えるこれらは、個人的には、それとは真逆の意味のインテグリティということばによって断りを入れながら続けると、もう少しだけ輪郭があらわれてくるものです。インテグリティ integrity (誠実さ)という語の語源は、いうまでもなくギリシア語の integritas から来ていますが、それは本来、「全体」と「ひとつ」というふたつのものが合わさった意味の言葉です。わたしはかならずしも歴史言語学的な意味にとどまらないかたちで、integrity(高潔さ)というものは、どこか無責任な integritas さ(両義性)と関わっていると思っています。全体でありながらひとつでもあり、事前でもなければ事後でもなく、ある意味、生でもなければ死でもない。その行為は、やはり、そういうふうにしかいえないようななにかなのです。


わたしとって、「焙煎」はそういうものです。ある意味「コーヒー」も、そういうものです。きわめてなんとなくですが、そういうふうに思うものです。


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