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歓待について

Posted: 2020.06.01 Category: ブログ

歓待についてイメージ1

店主です。

いままでいくつかの機会に、ジャック・デリダがとても好きだというふうに文章を書いたことがあります。

ジャック・デリダとは、どういう人でしょうか。フランスの現代哲学の急先鋒であり、20世紀後半を代表する哲学者であり、現代(亡くなられていますが)哲学者において本当に数すくない、哲学史の巨人たちと真に並び立つ人物----それも私自身がゆいいつ同時代に生きた人として----というような、検索をかければ簡単に出てくるような内容以外にどのような事を言えば、そのことをうまく描けるのでしょうか。

『(デリダについて描くのは)ひとつの困難が伴う。夜に向けて語りかけなければならないという困難が。夜とは、哲学的な思考の中で昼の次元に属さず、見えるものや記憶の次元にも属さないもののことである。それは、沈黙に近づこうとすることであり、言説がそのまわりに配置されていく。「詩」だけがときおり、この沈黙を見いだす。だが、それは言葉とエクリチュールの運動そのものにおいては開示されず、つねに逃れ去ってしまう。夜の一部が言語の中に書き込まれることもあるが、それは同時に、抹消の瞬間である』(アンヌ・デュフールマンテル)

初期の彼の著作(『声と現象』、『エクリチュールと差異』、『グラマトロジーについて』)を学生時代に熱心に読んだ時、すでに時は彼の中で「後期デリダ」だったという事は、それから20年くらいがたち、ようやく実態を持ってはっきりと固まってきたような事実でした。その当時、私は彼が理論的な事を離れて「正義」について考えをめぐらせはじめた事に、ほんの少しだけ、しかし何か決定的に違和感を覚えていたような記憶があります。それは、静かな記憶です。しかし、最近『歓待について』という彼の「後期」の著作を読み、とても刺激があったのです。

『異邦人の問い、それは異邦人の/異邦人からの問いではないでしょうか。異邦人からやってきた問いなのではないでしょうか。異邦人の問いがある。それは確かなことです。けれども、論じるべき一つの問いとなるに先だって、そして概念や主題や問題やプログラムを指し示すのに先立って、異邦人の問いは、異邦人からの問いであり、異邦人からやってきた問いなのです』(『歓待について』ジャック・デリダ)

私はこれにそっくりな文章を、ニーチェの著作のどこかで読んだことがあると確実に示したいのですが、それはここでの問題ではありません。問題は、他者(異者)を受け入れる事について書かれた彼の「歓待」の問題には、つねに「主従」の問題が隠されているという事です。争いはもっぱら「同じ同士のレベル」でしか起こりませんが、歓待、つまり受け入れる事の出来ない他人(異者)を受け入れられるのか? という問題は、つねに「主」から「従」側への問いかけです。どれだけ否定しても、「主」から「従」への階層の問題があるのです。そしてこの階層秩序的な二項対立(=形而上学的な問題)は、階層を持って措定された責任的な何かとして、つねに反転する要素を含まずにいられないものです。「主者」とはいつも「従者」によって規定されるのであり、歓待の問題は、つねに受け入れる方が受け入れられる方より下部構造的なニュアンスを問われる----それを揚棄するのが本来馬鹿馬鹿しいものとしてあらわれていても、このひどい痛み無しには、物事が進むことはありえないのです。

いくつかのギリシア悲劇には、このあたりの生々しさがあります。

後期デリダの引用がほとんどその時代のテクストを問題とするとき、その痛みに少しだけ感じられるものがあるように私はなってきました。

歳を取ったのでしょうか。

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