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珈琲と読書

Posted: 2023.04.21 Category: ブログ

珈琲と読書イメージ1

店主です。

かつてあるころによく読んでいた本を、久方ぶりに読み返していました。本を読んだ話ばかり書くので、誤解されることが多いのですが、わたしはあまり読書が好きなタイプの人間ではありません。ことわっておく必要もないことですが、人生においてとりわけ読書が好きなわけではないというふうに、個人的には思っています。先日もあまり人の読まない(であろう)本を読んでいる姿をあるひとに見られたとき、(少し笑いを含んだ表情で)「またそんなして本を読んで」、みたいなことを言われてしまいましたが。。好きだからそうしているというわけでもないので、どちらかといえば音楽を聞いているほうが好きだという感じがあります。本を読むことについてもう少しなにかいうとすれば、自分は多くのジャンルの書物を読むタイプの人間でもありません。ただし気に入った本に関しては、それこそ一生というくらいのいきおいで読み続けることがあるようです。そのことに、どういう意味があるのかはわかりません。たんに気にいったからそうしているだとか、そうではないものに関しては、繰り返し読んでおいた方が良いといわれるものでもそうしないだとかいうくらいのことだと思います。そもそも本の種類に、個人的な好悪以外で肯定されるべきものと批判されるべきものがあるのかもよくわかりませんが。。ただ、冒頭に取り上げた今回問題になる本に関しては、よく覚えていることがあります。読んでいて楽しいということと、一方ではこういう感じのことを一気に思い出させるような記憶がついてまわること、そのことに関してのものです。

あれはたしかまだ10代のころだったと思うのですが、たまたま知り合うことになった大学で教鞭を取っているのだというふうに聞いたことのある人物が、わたしがよく読んでいた問題の本について、いたく蔑しているのを見たのです。ひどいことばの内容でした。それは直接に目の前で起こったことではありませんでしたが、自分はひとがなにかを判別したり、場合によっては固有名詞をあげて不特定多数の人間が目にする可能性のある場所に引っ張り出したり、異なるものに対して罵声を浴びせることの意味を、はじめて出会う出来事のような印象で受け止めたのです。そしてそのとき、物事にあるなにかが隠れてしまうしかない、くちにされた瞬間に死んでしまうしかないような、あかるみの下では死ぬしかないようなものの存在を見たような気がしました。こういう印象をきっかけに、「隠れる」というのが自分の人生のテーマになったような気もしました。気づいていなかっただけで、なにかがきっかけで、人生における強力な方向づけがあらわれてしまうというのは、おそらく多くのひとの人生についてまわる出来事なのです。ジャン=リュック・ゴダールは『映画史』の中で、商品広告と大学で交わされる言語を取り上げて、ことばにはおよそ二種類しかないと言いました。その違いは、出来るだけそばにいようとするか、おそろしく遠く離れていようとするかだとも。そしていくらか馬鹿げているとしても、ものごとのあらわれとして、ことばの本質として、前者のほうがより真実にちかいなにかであるとも言い添えました。(このことばをよく覚えておきましょう)。一方でウォルト・ディズニーは、人間には二種類しかいない、と言いました。それは象牙の塔にこもる人間か、そうではないかというふたつの種類です。このふたつは、奇妙な符号です。まったく同じことを言っているようにも見えるし、全然そうではないようにも見えるのですが、奇妙な符号です。いずれにしても、となりに置いてみたい符号です。

どうしてとなりに置いてみたいのか? 自分はゴダールとディズニーがくちにした二つの場所、なにかに規定された二つの場所を行ったり来たりしているだけの人たちがあまりに多いこと、そしてそのことが現実にもたらしている不明瞭な苛立ちのようなものを、よく見ることがあるのです。そういう人の姿や、それによって生まれる不明瞭や苛立ちを、本当によく見ることがあるのです。構図だけ見ると、あまりの単純さに笑ってしまうくらいなのですが。そしてこのことは、おそらく自分もそうなのです。その不明瞭と苛立ちのなかに含まれている人間なのです。しかし、実際にはどうなのか。。(それが最後であるかはわからないまま)最後的なことだけを言えば、事実としてできるだけなにかのそばにいる方、できるだけなにかのそばにいようとする方を選んでいるのです。わたしは結局、(それは)、あまりにありきたりな言い方をするのであれば、「商売」を選んだということだ思っています。しかし、(最後的に)、あるいは抵抗的に見出されたそこで交わされるなにかがコーヒーだったこと、あるいはそれがコーヒーであり続けていることには、いくらか馬鹿げた感想のことばしか浮かんできません。そして、このことについては、いまだに慣れないのです。慣れないというか。。わたしはこのことをどれくらい考えてみても、やはり馬鹿げた感想のことばしか浮かんできません。しかし、ウォルト・ディズニーというひとは面白いひとです。彼の手がけた事業体が面白いというよりは、彼の人生の渡り方が、なんというかじつに面白いのです。二流の(あるいは三流の)漫画家として消えていきそうだった地方都市の取るに足らない人物が、自分のしていることの本質を含んだ形で、なぜあのような生まれ変わりの姿をあらわすことになったのか? しかも、どこか自分で選んでそうしたわけでないふうなところが、また颯爽と感じられるのです。ぼおっとしながらこのあたりのことを考えていたのですが、(めったに存在しない)待ち合わせして久しぶりにひとと遊ぶ時間がやって来たので、わたしはこれから家を出ないといけません。行き先は星時です。

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