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詳述のコーヒー

Posted: 2022.12.31 Category: ブログ

詳述のコーヒーイメージ1

店主です。

(昨年も同じようなことを書いた気がしますが)年末年始は家にひとりでいる時間が長いため、必然的に読書の時間が増えることになります。昨晩はポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』を読んでいたのですが、分厚い本の冒頭の「ルソーからはじめようとした」というド・マンのつぶやきで、すでに目を閉じて笑うわたしがいました。なぜならこの一年わたしはルソーを読もうとして、何度も何度も頓挫していたのです。ポール・ド・マンも、書きはじめにあってルソーを借りることを頓挫したようなので、それを見て(勝手に)それなら良かったと思いました。しかし、わたしはなぜいまさらド・マンを読もう(読み直そう)と思ったのでしょうか。彼の書いた本の題名に、ちかごろ気にしてばかりいたアレゴリーなることばが含まれていたからでしょうか。あるいは主著にあたるその本の文庫版があらたに装丁されたからだとか----そういう理由でしょうか。それとも、自分が人生のなかでもっとも時間をかけて読むことを続けていた彼に所縁のある日本人批評家が、近々バーグルエン哲学・文化賞を受賞するなどの出来事があったからでしょうか。それはそれとして、ポール・ド・マンがこの主著の中でプルーストやニーチェ、リルケについて書いていることは、ここ数年の自分の読書の領分とほとんど重なっており、(ルソーへの読みが後回しになったことまで含めて)、いつのまにか同じことをしていたことに、何か不思議な安心感がありました。本を読みながらこれほど安心感があったというのは、いまだかつて記憶にありません。それが良い読み方なのかどうかはわかりません。ただ、ド・マンとルソーの関係にあることは、わたしにはなぜかグレン・グールドがショパンを弾けなかったことと同じことに思えました。それはつまり「自分はロマン派以上にロマン派だから(ショパンは弾けない)」(グールド)という、あの意味のわかりにくい、しかし圧倒的に真実であるなにかの様子に似ている気がしたのです。

『(…)台所女中が〈真実〉の勝利を対象的にいちだんと目立たせる〈誤謬〉のように、フランソワーズの優位性をついうっかりと際立たせながら、ママの言う「お湯にすぎないコーヒー」を入れ、次いで私たちの部屋にぬるま湯とさえ言えないようなお湯をもって上がってくるあいだ、私はすでに本を手にして私の部屋でベッドに寝転んでいた』(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』)

わたしは「コーヒー」という文言が出て来るからではないと思いますが、マルセル・プルーストの長い書き物のなかで、この部分がとても気になっていました。だいたいいつもコーヒー焙煎をしながふわふわした気持ちで読んでいる『失われた時を求めて』の中の、「スワン家の方へ」の中にある、この文章がとても気になっていました。そして驚いたのですが、ポール・ド・マンも、あれほど長いあのプルーストの書き物の中で、(世界でもっとも長いひとつの本のなかで)、まったく同じ箇所に目をつけていたようなのです。わたしは口をあんぐり開けて、かつてこれと同じようなことがあった気がするぞ、と思いました。それはこういうことです。わたしはかつて臼井隆一郎氏の長い本を読んでいて、ある箇所を引用したことがあったのですが----わたしとは違う別の人が、それとまったく同じ部分的を、わたしがそこを引用するより先に引用していたことがあったのです。もしかしたらその人は、同じことをしているわたしを見て「孫引き」をしていると思ったかもしれません。なので、いつか機会があれば、謝らないといけないかもしれません。しかし、それは本当にただの偶然でした。なぜあれほどの長さの文章の中から、同じものを抜き取ろうとしたのか、そして抜き取り部分はそのどちらも、アレゴリーについて書いてある箇所でもあったのです。

ポール・ド・マンは、プルーストの書いたさきほどの「お湯にすぎないコーヒー」について、このように書いています。

『〈真実〉と〈誤謬〉という一対のアレゴリーが、交替的な二極性がとりわけ顕著に現れるその一節を支配している。しかし、この喜劇めいたコンテクストでは、代替の連鎖が原点の完全さを確保することは、まずありえない。生あたたかな液体は本物のお湯の劣化した姿だが、そのお湯もまた、コーヒーの劣化した代替物なのだ』(ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』)

これはマルセル(失われた時を求めての話者)がコーヒーを要求したとき、母親ではなく女中がコーヒーを入れ、しかもその出来上がりのコーヒーは彼の母親いわく「お湯にすぎない」ほど下手くそな抽出(の薄さ)であり、しかも運ばれたコーヒーは「ぬるま湯とさえいえない」ほど冷めてしまっている場面ですが----ポール・ド・マンが「代替の連鎖」という観点からこの場面をときほぐすのは、とても優れた観察眼を思わせるものです。というか、プルーストの小説には、ある意味では「代替の連鎖」しかありません。そしてそれは、「原点の完全さを確保することはありえない」(ド・マン)。「現在」の代替としてプルーストの小説にはいつも「過去」(失われた時)があり、「過去」の代替としての「未来」があり、「未来」の代替としての「現在」があり、「記憶」の代替としての「体感」があり、「ジルベルト」の代替としての「アルベルチーヌ」があり。。このような入れ替わりが、代替が、流動的に目まぐるしくあるのです。これらの生成の生起は、そこだけに目をむけるとあまりにあわいものです。そう考えてみると、こういうことがよくわかります。『失われた時を求めて』のなかで、マルセルがたくさんの女のひとに(あまりにも)色々なことをされ、振り回され、(精神的に)ボコボコ殴りにされるのが、とてもよくわかります。それはつまり「代替の連鎖」なのです。そしてコーヒーの代替はいつも「お湯」です。「ぬるま湯とさえ言えないようなお湯」(プルースト)です。何を隠そう、わたしもかつてある場面で、いくらかの人数のひとびとの前で「あなたにとってコーヒーとは」と聞かれたとき、コーヒーのことを「ただのお湯」だと言ってしまったことがあります。おそろしく冷め切っており、苦い感じでした。その様子はまさに「喜劇めいたコンテクスト」(ド・マン)というほかないものでした。

『読むことのアレゴリー』に戻れば、ポール・ド・マンが「詳述」を突き詰めれば突き詰めるほど意味が消え、ことばは物質になり、「代替の連鎖」がはじまろうとするのはなぜでしょうか。わたしは、それこそがまさに「読むことのアレゴリー」だと思ってしまったほどです。代替の連鎖と言えば、わたしはいつも、あることばを「コーヒー」ということばに置き換えながら本を読んでいます。間違いなく、コーヒーということばに勝手に置き換えながら本を読んでいます。それについては、いつかあらたな稿にでもゆずるべき内容かもしれません。そのことに関して言えば、わたしは時を同じくして、さきほど名前を出した『コーヒーが廻り世界史が廻る』の著者の本を、ポール・ド・マンに重ねるように読んでいました。詳述できるほどには読めなかったコーヒーとドイツ史に関わる書き物をあらためて読んでいたのですが。。そこに、いままで書いた出来事につながるなにかを見つけていました。一度読んだだけではすぐに気づけなかったことがあったのです。(わたしの誤読かもしれませんが)、その著書の中にはコーヒーの語源であるカフワを遡行し、「カーフィル」という語がもともとのものではないかという言及がありました。繰り返しますが、それは一度読んですぐに気づけなかったことでした。カーフィルは、もともと「土をかけて隠す」、という意味なのです。その箇所が、寓話的な意味(アレゴリー)が、色々と混ざりあって一気に迫って来たのです。

『真理が隠されてあるという意識は真理探究の大前提である。エチオピアの奥地の非イスラーム教徒圏から搬入されたコーヒー豆から抽出した液体が、カーフィルという言葉と観念を覚えていたために、コーヒーの覚醒作用は「隠された真理を明かす」という反対の意味を熟成したのである』(『アウシュヴィッツのコーヒー』臼井隆一郎氏)

何が言いたいかというと、コーヒーはすでにして(隠されたものが)掘り起こされたものある以上、そこにあらたに掘り起こされる真理など存在するのかということ----それはずっと、わたしが感じて来たことでした。すでに取り上げられたものである以上、「くわしさ」というのはおかしいはずなのです。掘り起こす(対象化する)行為のあとに、単調な観察の意味があるとは、わたしにはとても思えません。カーフィル(不信)なものにカフワ(コーヒー液)がとって替わり、それが「商品」になった時点で、(不審極まりないものがかたちになった時点で)、そこからさきの解き明かしの意味は「薄い」(プルースト)というふうにわたしは思うのです。(抽出された)コーヒーに関してもしなにか言おうとすれば、(プルーストの言う通り)、結局それは「お湯にすぎない」だとかそれくらいのものかもしれません。あるいは、もし言おうとすれば----不審極まりないものまで遡り、不審極まりない触れ方をするくらいしか----方法がない気がするのです。臼井隆一郎氏の結論とは真逆に思えますが、結局それは「入れ替わりの連鎖」(ド・マン)として、ほとんど同じ意味でもあるというふうにわたしは感じます。

本来ならこのことについての「詳述」を続けるべきですが----アレゴリーの形を借りたところで、いまのわたしにそのちからはありません。そういえば、今日は大晦日でした。

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