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定休日:金曜、第一木曜

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ある「方面」とわかりにくさ

Posted: 2021.03.30 Category: ブログ Comment: (0)

ある「方面」とわかりにくさイメージ1

店主です。


先日から落ち着かない日々を過ごしましたが、日常から離れていたことが原因だと思います。「遠方」のコーヒー豆の卸先に足を向けたり、久しぶりに遠くのコーヒー屋、先輩などをたずねました。わたしはそのとき、自身の出自やこれからに関して、深さの部分や先を行っている部分を持つ人々と、久しぶりの交流を持ったという気がしました。


実際、丹波篠山でお店を持った「大先輩」などは、オープン時に石脇氏が駆けつけて、そのときに話された内容を教えてもらいました(滅法面白い内容)し、それはずいぶん刺激のあるものだったのです。しかし、小咄はともかく、会話をしているうちに、自分は何かとてつもなく孤独な感じがしました。まったく反対の土地で、まったく反対の方面の人々から同様に「きみはやっぱりなにをかんがえているかわからない」と言われたこともあったと思います。そんな中で耳に届いた石脇氏の話は、ここでは書けないような内容でしたが、それを聞いてわたしは何か足元を照らされた気がしたのです。


『文学がその自意識に目覚め、文学ならざるものとの違いをきわだたせることにその主要な目標を設定していらい、過去一世紀に及ぶ文学の歴史は、同じであることをめぐるごく曖昧な申し合わせの上に、かろうじて自分自身を支えてきたといってよい。最初にあったのは、同じでありたくないという意志であり、その意志の実現として諸々の作品が書かれてきたのだが、より正確にいうなら、こうした文学的な自意識の働きは、それじたいとして故のない妄執をあたりに波及させてきたわけだ。実際、同じではありたくないという意志が等しく共有される場として文学が機能していたという事実は、何とも奇妙な自家撞着だというべきだろう』(『小説から遠く離れて』蓮實重彦)


わたしは批判的になっている人を見るとき、その批判が批判の対象によく似ていることを、とても危険なことだと感じます。たとえば、資料を徹底的に吟味し、非常に趣味よくスペシャルティコーヒーを批判する人たちがいます。わたし自身は「スペシャルティ派」(そんなものに実体があるのかもわかりませんが)ではありませんが、前述の批判には、どこかしらの危惧を覚えます。なぜなら、スペシャルティコーヒーにある「素材の趣味性」と「洗練度」が、ファンダメンタルな部分でまさに、批判している側のセンスの拠り所となっているからです。それは、結局は、まるで同じことです。スペシャルティ界隈にある「スペシャルな感覚」の一様な凡庸さは、結局触れてしまった時点で、蒙昧な肯定であれ、長けた批判であれ、すべて形が似てくるのだと思います。わたしは、こういうものから「遠く離れて」いたいと(わりといつも)思っているので、孤独を感じるとき、そのあたりのことを言われているのだと思っています。


※もっと楽しいことがたくさんあったので、長閑な旅行記になるかと思ったら、なりませんでした。


ある「方面」とわかりにくさイメージ3

Harp Cafe KISSAKO

Posted: 2021.03.21 Category: ブログ Comment: (0)

Harp Cafe KISSAKOイメージ1

Harp Cafe KISSAKOイメージ2

福井に来ています。

やっと来れました! Harp Cafe KISSAKO さん。

店内、素敵なハープの音色。生演奏に癒されます。

コーヒーもアダチオリジナル。2種類のメインブレンドは、どちらもとっても美味しいですよ^_^

Harp Cafe KISSAKOイメージ3

出店

Posted: 2021.03.20 Category: ブログ Comment: (0)

出店イメージ1

出店イメージ2

本町ベースさんに、POLAさんのイベントで出店中。


ものすごい賑わいです!!

出店イメージ3

せきてらすさん

Posted: 2021.03.19 Category: ブログ Comment: (0)

せきてらすさんイメージ1

本日関市新刃物会館とせきてらすさんのオープニングセレモニーでした。


様々な人々の交流の場に。


カフェではアダチのコーヒーをお使いいただいております。


エスプレッソメーカーでご提供するアダチのコーヒー。


お店とはまた違った味わいが魅力的です。


他人と共有される「あるもの」

Posted: 2021.03.19 Category: ブログ Comment: (0)

他人と共有される「あるもの」イメージ1

店主です。


先日「廃業した自家焙煎珈琲店」の跡地で、カフェをはじめた方から「バッハの田口さんってどういうひとですか?」とたずねられる機会がありました。もちろん、事前打ち合わせしていたわけではありません。


あまりにカジュアルに尋ねられた(ように思えた)おかげで、その場で気の利いたことも言えませんでしたが、今思い返してみると、わたしがどういう場面でどういう風に何を思われているのかの(ごく瑣末な)一端を、あらためて考えさせられるような出来事でした。


そしてほとんど時を同じくして、別の某有名店の店主(本当に有名な方です)から、「貴方はカフェ・バッハにいたのでしょ」、と言われました。ほぼ連続でした。


わたしがバッハにいたというのは事実であり、またある意味においては、証明するところまで付き合う価値のある事実ともいえないものです。ただ、わたしの中では、某所での執筆に付き合わせる形で御大について何か思い出していた事と、いまになって同じような出来事が重なりをみせたのは、少し意外なことでした。


わたしがカフェ・バッハにどのようなおさまりを見せていたのかは、正直よくわかりません。時々(で、すらもはやなくなりましたが)彼について考えている事を前提とした会話をする人物が「若干名」いるので、自身でもまやかされてしまいますが、本当はそのことについて考えることも、正直に言うともはやあまりないのです。(ただ、氏の文章は変わらず好きです)。


微妙な問題に関して、確かな事は言いにくいものです。グループに属していない人間の意味は何なのだろうか? トレセンを出てからたった時間も、はたしてそれほどのものだろうか? わたしは心で静かに続く低いつぶやきの中、構図的に収まるものを探していたのかもしれません。そしてもちろん、そんなものはどこにもありませんでした。例えば、わたしの同期でSCAJの要職に就いている人物(これが当人を評するのにもっとも適切な語句であるかは甚だ疑問ですが)など、氏から「弟子」と呼ばれる事があるようです。しかし、わたしがまったくもってその類で無いことだけは、確かな事です。


カフェ・バッハトレセンでわたしが浮きに浮いていた話は、かつてどこかで、書いた事がありました。参加者全員が目を血走らせて『大全』の中にあるプロファイルのおそろしく微細な内容を質問していた(彼らは104ページのパナマの焙煎投入温度が間違っていることにすら気づいていませんでした。今から考えれば、顫動するような話です)とき、そういう時を思い出します。あのときわたしがしていたことといえば、コーヒーを主体とした事業体の運営の仕方と、それを通して収益性を上げていく方法の発問くらいのものでした。


「あいつは、なんなんだ?」


わたしが口を開くたび、御大は番頭役(と某書で自身を評されてみえた)方にぼやかれていた事を、これを書いている途中から思い出してきました。あれから、どれくらい時がたったのでしょうか。


『習慣の一番の特質というものは、それが不文律であるということです。習慣というのは、明文化された定められたものではありません。なかなか言葉にできないようなあいまいなもの、あいまいだけれども、自分にはしかと感じられる自分をささえるもの、他人と共有される「あるもの」です。言うことのできない多くのものでできているのが、実は人生という小さな時間だと思うのです』(『なつかしい時間』長田弘)


コーヒーはいつのまにかわたしにとって日常(習慣)となり、生業以外のものではなくなりました。時間的な長さは数字になりますが、わたしには実感も実体もないものに思えます。


ただ、少し歳を取りました。


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