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コーヒー豆1.5倍増量セール

Posted: 2021.12.21 Category: ブログ Comment: (0)

コーヒー豆1.5倍増量セールイメージ1

年内最終営業日まで、(12/29)、歳末恒例コーヒー豆増量セールを開催中。

やきたてほやほやのコーヒー豆。ぜひお買い求めくださいね。

隠喩としての珈琲

Posted: 2021.12.21 Category: ブログ Comment: (0)

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店主です。


どこで手に入れたら良いかわからない刊行物について、大袈裟にいうことが正解なのかどうかはわかりませんし、分量としてはいささかまとまっているとは言い難いものですが、かつて執筆をしていたコーヒーのコラムの連載が再開しました。コーヒーについて、わたしの思うことを書いています。テーマはありません。わたしの思うことを書いています。


コーヒーについてわたしの思うこと、などとと言えば何かの仰々しさがあるかもしれませんが、わたしがコーヒーについて思っていることは、あまりにも瑣末なものです。これは、本当にそうなのです。たとえば、臼井隆一郎氏や山内秀文氏といった人たちがコーヒーについて書いているもの(あるいは翻訳しているもの)を読むと、コーヒーについて、わたしは何を知っているのだろう、と思います。純粋に、そういう気持ちになるのです。しかし、それはむしろ「書ける」ということです。わたしにとっては「コーヒーについて書く」ということがどういうことかはともかく、書くという行為は「ものの見方や考え方」が捉えられる場面の、ひとつひとつに立ち会うことです。そしてわたしの場合、コーヒーは解釈の対象ではないので、自分が何か書いているとき、珈琲の存在は「比喩」ではなく「隠喩」です。つまり、「隠喩としての珈琲」です。


『ゲイシャはたしかにユニークな個性をもった品種だが、レモンティーのような香りを敬遠するムキもある。「何も高い金を払ってレモンティーみたいなコーヒーを飲む必要はない。レモンティーを飲めばいいのだ」という意見はもっともで、私もゲイシャの個性を尊重はするが、それはあくまでコーヒーの風味と認められる範囲内での話で、柑橘系の香りがあまりに突出してくると、いささか抵抗を感じるかもしれない。要は、バランスの問題なのだ』(『スペシャルティコーヒー大全』)


「比喩」といえば、たとえばわたしの領域にある(と思われる)コーヒーには、「何々のような」、あるいは、「何々みたいな」という感覚は存在しないような気がします。なんとなくですが、そういうものは存在しない気がします。しかし、多くの場合、コーヒーは「比喩」として取り出されることがあります。そしてそれが機能する(と思われている)場面での立居振る舞いの(あるしゅの)洗練度によって、「あいつはコーヒーがよくわかっている」だとか、「あいつはコーヒーがよくわかっていない」だとかいうふうに言われたりもします。味わいを見ることが「職業」的に深められる場面でとくに、そのような「比喩としての珈琲」は、あらわれているような気がしないでもありません。


しかし、「職業」というのは何なのでしょうか? 少なくともコーヒーの世界にあっては、比喩が喧しくいわれる場面に、それのみの純粋な職業従事者というのは、じつはあまりいません。味わいを比喩で確かめ合う場面において、それだけを生業とする職業従事者が、じつはあまり存在しないのです。あることといえばそこに迷い込んでしまった多くの子羊たちが、場を支配する妖怪の口笛と比喩を真似する「環境の圧力」(カフカ)の中で気弱げに笑い、お決まりの場面から脱け出した先で、めいめい通常運転の「職業」を再開することだけなのです。それが、「コーヒーの仕事」です。


わたしは、こういうことについては、決して書けそうにありません。どれだけ考えても、何も書けそうにありません。。というか、わたしにとって書くということはむしろ、書きながら書くことそのものについて考えることのなのです。考えることと言えば、これまでにも何度か触れたことだと思いますが、ものを書くとき、折に触れてわたしはジャック・デリダのことを意識しています。これは学生のころからそうなのかもしれません。正確に言うと、ジャック・デリダの言ったことそのものというよりは、ジャック・デリダの言おうとしたこと。。フランス語のデリダではありません。日本語に翻訳されたデリダのことです。デリダというと、ものすごい入れ込み方をしている人がいるようで、わたしもかつて直接の訪問者に(お店に)襲撃され、苦笑するしかなかったことがあります。(こういうことを書くとまた同じような出来事に襲われる可能性もあるかと思いますが、ある程度までそのことを意識しながら書いています)。物事に対して、「わかっている」だとか、「わかっていない」とだとか、そういう軸で何か(とてつもなく一方的な)会話がなされた場面だったと記憶していますが。。わたしはそこでも何か抽象的な疑問のみ、胸にいだくよりほかありませんでした。わたしは(当たり前ですが)フランス文学の研究者ではないし、フランス語で正確にデリダが読みこなせるわけではありません。そんなことは、事実としてまったくありませんが、彼の書いているもの(日本語の翻訳物)のうちにある、「読み」に対する、「霊妙な確信」(プルースト)というべきものは、たしかに自身のうちに存在している気がします。


たとえば「脱構築」という概念は、いまだかつて誰にも形式を整理して読まれたことがありません。どれだけ精緻な解析でも、まったく読まれたことはありませんし、説明されたことはありません。その事実はある意味で、「読む」ということ、あるいは、言葉の物質性の問題を背理的に証明していることに思えるものです。デリダは言語の物質性を捉え、ありとあらゆる形式を解体する作業を目指しましたが、そのことは、それ自体が方法(スタイル)として、形式化してしまってはいけないという背理とともにありました。つねに、そういう背理とともにありました。そしてそれは、自分のやっていることを自分で裏返しにしていく作業でもありました。「概説」不可能な作業です。


概説が不可能と言いながら、これはあくまで個人的な感想ですが。。わたしは、時代的には(中期には馴染めず)初期と後期のデリダが好きで、初期デリダの中でもっとも優れている(という言い方も大概ですが)と個人的に思うのは、『声と現象』という著作です。あの書物の中で、彼が「瞬き」の比喩であらわそうとしているものが、とにかく面白いのです。先ほど「隠喩としての珈琲」と言いましたが、わたしは「隠喩」とは、瞬きそのもののことではないかと思います。ニーチェではありませんが、哲学ないし哲学的概念は、あるいは人間の思考は、官能の側から形式(事実)の側に間違って戻されたもの、間違って持ち込まれたもの(『権力への意志』)をめぐっています。デリダは、「瞬き」を問題にします。さらにそこから瞬きによって区切られる「前後」という概念を問題にするのですが、(つまりそれはヘーゲルに対する読みでもあるのですが)、彼が「読んでいく」のは、瞬きによって分化される「前後」そのものの問題ではなく、「瞬き」そのものの不可分性についてのことなのです。われわれは、瞬き(まばたき)を「分ける」ことは出来るでしょうか。しかも、自分の考えていることは、いつも瞬きのあとなのです。


※某所での連載は不定期で続きます。


忘年会

Posted: 2021.12.13 Category: ブログ Comment: (0)

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新年会をやろう、と言ってからコロナ禍の復活や何やらで結局かろうじて開けたのが忘年会。

色々と盛りだくさんの中、無事に一年間を終えられることの貴重さを感じます。

みなさん今年もお疲れ様でした。

カフェと人生

Posted: 2021.12.07 Category: ブログ Comment: (0)

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店主です。


わたし個人の話というよりは仕事上の立場から来る内容かもしれませんし、進んでそういう状態になろうとしているところも(ややもすれば)あるのですが、職業柄「カフェをやりたい」という人に出会う機会が多くなりました。わたしが代表を務めている事業が、そのように地方新聞に取り上げてもらったりすることも増えてきた中で、あらためてそんなことを思うようになったのです。コーヒースクールの二期生さんにも、ラストの回に「お店の経営について話してほしいです」という要望をいただいたので、予定していた講義を差し替えにして、カフェの運営についてのことを話したくらいです。しかし、わたしは、経営については少ししゃべりすぎです。もういい加減にしておいた方が良いという気がします。講座を終えたあとにふと手を止めながら、わたしはいくつかのことを考えていました。しかしそれは経営に関わるようなことではなくて、何かを台無しにしたという思いの、数日前のある出来事のことでした。


日付が変わり、予定されていた出来事を済ますための東京へ行く日の朝が来ました。わたしはあまり気分が変わらないままスコット・フィツジェラルドの本を読み、黒胡麻のついたパンのたまごサンドと、泡の多いソイラテを口にしていました。名古屋駅の同じ場所で、もぐもぐしながら、ゴクゴクし、新幹線の乗車前はだいたいいつもそんな感じです。


コロナ禍での二度目の東京は、季節感もあってか色とりどりの生地で顔の下の半分を隠した人々の違和感もそれほどのものではなく、まったくあたりには人が多すぎると感じたほどでした。一冊の本を片手に、新宿や渋谷という過剰なほど記号に溢れた場所を練り歩くわたしは、本当に自分はこんな場所で、10代の終わりから20代の半ばまでを過ごしたのだろうか、と思いました。あのころ東京にいたのは年数をかけて予定されていた出来事のためでしたが、わたしはそれを、画されたものとしてきちんとこなしたわけではありません。どちらかといえばむしろ、スポイルしたほうなのです。数日前を端に引きずったままの出来事は、静かに胸を塞いでいました。わたしは知らず知らずのうちに、その日予定されていた出来事も同じように台無しにしてしまいました。


降って湧いたように生まれた長い空き時間を使って、わたしはポートランド以来のスタンプタウンコーヒーの豆を眺めに、幡ヶ谷に足を向けました。レコード盤で回されるシュギー・オーティスのギターを聴きながら、年季の感じられる木製テーブルの傷の上にそっと腕を置き、供されたものの味をくちにふくんでいると、何か懐かしい時間の訪れを感じたのです。ようやく少し、ほっとしました。ロック・ミュージックと言えばかつてジョン・レノンがぶっきらぼうに放った名言のようなものはたくさんあり、だいたいどれもわたしは好きなのですが、中でも「人生とはある物事を計画しているときに、まったく別の物事が進んでいくことだ」と言うのが殊勝に思えます。片手でほおづえをつき、ぼおっと店内を眺めていたわたしは、じっと黙ったままその意味を考えました。あるいは止まり木になりそうな目印もないまま、ただ虚空に向けた視線が泳いでいただけかもしれません。


自分はどうしてカフェをやろうと思ったのでしょうか。勤め人になれないという予感を粗雑に言いくるめるために、「カフェでもやろうか」とうそぶいていた時期と、現実にそれが見えはじめた二つの時期は、重なるようでいて実は違います。そのふたつは似ているようで、決定的に違っているのです。それに気づいたわたしは稲妻にでも打たれたかのように立ち上がり、会計を済ませたあと、昔住んでいた場所の近くのカフェを訪ねました。潰れていないのが不思議な見覚えの中古CD店を過ぎ、いっとう通ったというわけでもない、しかし忘れられない何かの意味を含んでいる気がするカフェに、自分でも不思議な気持ちで足を向けたのです。古木戸をくぐった先の店内はおそろしく暗く、覚えていることと忘れたことが、はっきりと残っていました。


わたしは人からカフェをやりたいと言われるとき、人生が気詰まりだから、やりたいことをやりたい、カフェくらいはやってみたい、というようなことを言われます。よく、そういうニュアンスのことを言われるのです。しかし、人生がうまく行かないからカフェをやるだとか、人生はうまく行かないけど、カフェをやることくらいはうまく行くだろうというのは、何の目論見なのでしょうか? カフェというのは、誰がどういうふうに言おうと、人生の一部でしかないのです。人生はうまく行かないけど、人生の一部であるカフェ経営くらいはうまく行くだろうというのは、虫の良い話でしかありません。そしてそれはずいぶん好い気なもので、いまの仕事をする前の、かつての自分自身の気分そのものでもあるのです。


仄暗いカフェは、店内に灯るわずかなロウソクの残り火そのままに、22年間の寿命を終えようとしているところでした。とくに誰だということもわからず、その日最後の客に向けた声色でお店がなくなる事実を告げた店主を見上げたわたしは、支払いを終えて名乗れなかったことを思いながら、古木戸を反対側から抜け出ました。そして自分がそこを再訪したのが20年ぶりくらいだったという事実に、ようやくそのとき気がついたのです。


コーヒー豆ポイント2倍DAY

Posted: 2021.12.05 Category: ブログ Comment: (0)

コーヒー豆ポイント2倍DAYイメージ1

本日は「5」のつく日にて、コーヒー豆のポイント2倍DAYです!

お買い上げのコーヒー豆がお決まりの方は、お電話もしくは公式LINEなどから事前にご連絡いただけると、お待たせする事なくお渡しできます^ ^

ぜひご利用ください!

皆様のご来店お待ちしております〜!

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