沙羅双樹が芽吹いてきました。
Blog
沙羅双樹が芽吹いてきました。
店主です。
多くの人びとにゆるい拍手で迎えられ、設えの良い集音装置を手のひらに握り、座ってくちもとにそえたままボソボソ声でなにやら好い気に発話を繰り返していた場面があります。それはたしか、ついこないだの出来事です。このことについては、どこかでたしか、なにかを書きました。訥々と(文字通り訥々と)、ただコーヒーについて話すというよりは、いくらか「偏ったコーヒー」について触れなければならない場面があったというような記憶です。たしか、そういう瞬間の訪れがあったと記憶しています。ただし問題の場面は「瞬き」(デリダ)をしていたら終わっていました。
進行中の時間の中で、わたしは(いつものごとく)ほとんど眠っていたのかもしれないと思いましたが、途中ソリッドなマイクの触感を手にしたままでも何かの会話は続いていたようで、汗ばんだ手のひらとある情景に包まれ、起きたあとのように、あるいは構図のようにあたまに浮かびつつあった何かを捨てながら、これはいつかあったのと同じような場面だ、というふうに考えていました。その場面は正直、思い出せることと思い出せないことがあるのですが、わたしはたしか記憶の中の自分と同じように、「中庸」ということばについての思案が巡るのを感じました。そして、それについて何か書いたことがあったとも思ったのです。どうしてそんなことを思ったのかはわかりません。コーヒーについて、あるいはコーヒーに関して、あまりに構図めいた発言をした自身の平板さに動揺していたのかもしれません。しかし、「中庸」というのはわたしがわたしの想う「コーヒー」に向けたなにかの手がかり、ゆいいつの手がかりであるという気がするのに、時折(しょっちゅう)忘れてしまうものです。それは、困ったものです。同時に中庸というのは、しょっちゅう覚えていたら、ある意味それは間違いでもあるような気がするものです。
わたしは「中庸」というまったく掴むことのできない感覚について、子思の発言集成であると勘案されているある書物から来るイメージというよりも、むしろ『論語』の中で、孔子が数度呟いている場面のニュアンスのほうに何かがあらわれているものについて、ふたたび考えをめぐらせていました。中庸というものの意味について、とても説明のつかないことを説明しようとする(無茶をする)のであれば、それは、「偏った」という意味を反対にしてしか取り出せない、なにかの概念ではないかと思います。つまり、偏ったものが何もないというような概念です。中庸というものを「中程」であると捉える概念があります。しかし、フィフティフィフティというのは、すでに「定量的」な概念に偏っています。あるいは、「数字的」な概念に偏っています。ですので、それは間違いです。ここまでくると、意味を述語的に取り出すこともほとんど不可能に思えます。わたしは坂口安吾が好きなのですが、彼がある場所で「行雲流水の如く」と言ったことばは、前後の文脈も含めて何か「中庸」ということばに似ているように感じます。
しかし、すべておいて何にも偏らないというのは、果たして本当に可能なのでしょうか。あるところまでは可能ですが、あるところからは不可能であるように思えます。だいたいは続かないからです。そして、偏らないことをもし本当に突き詰めると、「偏らないという状態」に偏っている、そういう「偏り」すらもスポイルされるはずです。つまり、「無根拠の根拠」(蓮實重彦)というものとの遭遇です。わたしは、こういう何かの裂け目からこぼれるものに、見間違いでなければかろうじて「意志」だとか「意味」だとかを見ます。そして、見間違いでなければ「表現」というものを見ます。「倫理」というものも、おそらくそこから見えるのだと思います。そういう偏りならば、何か信じられるかもしれません。あまり自分っぽい感じのことを言っていないことは百も承知ですが、そういう偏りならば、何か信じられるかもしれません。
こういうことが書きたくて書きはじめたわけではなかったのに、なんだか全然違うところにたどり着いてしまいました。これはわたしの書きたかったことではありません。本当に書きたかったこと(そんなものがあるかは謎ですが)は、いつか機会があれば書きたいと思います。
すっかりあたたさを感じるようになってきました。
沙羅双樹も少しずつ芽吹いております。
本日もみなさまのご来店をお待ちしております!
店主です。
アンリ・ベルクソンの『思考と動き』(La Pensee et le mouvant )を読んでいました。(もちろんフランス語のものではありませんが)。ベルクソンの本には、「時間」という概念がついています。どこを切っても、ついてまわっている印象があります。この著作にも独立した時間論がありますが、わたしがベルクソンに感じる時間というのは「文章そのもの」のことで、論説を待たないような種類のなにかです。とはいえわたしは「時間」というものがよくわかりません。「時間」というよりは「時間論」がよくわからないというべきかもしれません。自身の年齢にいくらかの符号がつけられるタイミングだったから、そんなことばかり考えていたのです。ベルクソンは「時」についての膨大な文献を残していますが、(まったく意味もなく個人的に)そういうものを追いかけていると、どこか首かしげの感覚に陥ります。そういうことが、よくあるのです。
一連の書きものをひろっていたわたしは途中で何だかあほらしくなり、「色無き緑の考え」というふうに、(おそらくすごい表情で)つぶやいていました。実際には、よく読めているとも思えませんでした。現代のわれわれから見返すと、ベルクソンの「時間論」というものは、何かずれているように感じます。決定的に、何かずれているように感じます。「簡単なことをただ難しく言おうとしているだけ」(チョムスキー)という気がするのです。しかし、ノーム・チョムスキーがジャック・デリダに向かって放ったことばと、わたしがアンリ・ベルクソンに対して思ったことと、いったいどこがどう似ているというのでしょうか。われわれは何かを言おうとするとき、あまりに「時」と「場合」というものを忘れがちです。なおかつ、前提条件をふいにしがちです。ベルクソンの「時間」は、あるパラダイムシフトでの前では意味がまるで違っていたはずのものです。わたしは彼の著作の意味よりむしろ、ある公理体系のあと(アインシュタインのあと)に、「時間」について語ることがほとんど「時計」について語ることと変わりがなくなった点について、あるいはそういう風にしか見えなくなった点について、注目すべきだと思います。そんなさなか、『思考と動き』と平行して読んでいたある本のうちに、(実際にいまここに書いていることとほとんどニュアンスが)同じことをすでに小林秀雄が言っていたのには驚きました。しかもそれは、相対性理論が出てからそれほど時間が経っていない頃にです。
「(時間というものを)説明しろといったら、わたしは、知らないと言う。説明しなくてもいいというなら、知っていると答える」(『告白録』アウグスティヌス)
わたしは、この「感覚」はどこかにあると思います。うまく言えないのですが、この「感覚」はどこかにあると思います。それは何かの公理系によってくつがえされるとか、何かのラショナリティ(合理性/理性感覚)によってくつがえされるとか、そういうものとは違うある「感覚」のことです。先日もずいぶん恥ずかしい思いをしましたが、わたしは、実際にコーヒーについて(かろうじて)何かくちにする場面にあると、だいたいいつもアウグスティヌス的な何かを感じています。じつに微妙な、アウグスティヌス的な何かを感じています。それは、「コーヒーというものを説明しろといったら、わたしは、知らないと言う。説明しなくてもいいというなら、知っていると答える」というような何かです。
ただ、このことについては、これ以上うまくいえません。
← 戻る