カフェ・アダチ

 

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10:00 - 18:00 L.O. 17:30
金曜定休

全席禁煙 / バリアフリー

座席数:店内36席

© Cafe Adachi

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プロヴィンシャルなものと思考イメージ1

店主です。


先日『小森の部屋』を開催するにあたって、二冊の本の読み返しをしようとしていました。ワークショップというと実に大袈裟さですが、一般に開かれた形で『珈琲大全』(田口護氏)と、『コーヒー「こつ」の科学』(石脇智広氏)の二冊の再読をしようと思っていたのです。このことは、個人的な感想以上に、どこまで実践できたかはよくわかりません。とくに石脇智広氏の『コーヒー「こつ」の科学』は、いまだに秘密の多い、謎めいた本です。それは一般的な意味合いにおける「謎」とはまた違っているのが、物事を二重の意味でややこしくしています。


たとえば、コーヒーの世界(だけに限らないですが)で物事が比較される時、「諸条件が完璧に揃うわけがないのに、論旨にとって重要な前提だけが固守される」という状態があると思います。これは、「謎」を発生させる装置でもあると(私は)思っているのですが、コーヒーの世界において、これらに対する「無視」が商売的に実践されている場合の方が(個人的には)よほど気持ちが良く、そのあたりの好悪は、私の仕事のやり方のどこかにあらわれているかもしれません。(全然そうでもないかもしれませんが)。焙煎機の操作子があたえる香味に関する議論しかり、同一条件下でのティスティングの議論しかり。。析出していけばきりがありませんが、論旨にとってぎりぎりの重要な前提だけが固守される出来事は、いつも私の目の前にありました。そしてそのことに、都度自分自身の態度が試されていたような気もするのです。それは、「精妙さ」が問われているということでもありました。


『創意とは、自分に期待されるものとはいくぶん違った前提を固守するときに用いる精妙さと関係がある』(グレン・グールド)


私はグレン・グールドがとても好きですが、それはおそらくこのような言葉が好きなのだという意味とほとんど同じものとして捉えています。そして石脇智広氏の「文章」も好きですが、その好きは同様の意味で、この「創意と精妙さ」の部分をめぐっているのだと思います。スペシャルティーコーヒーという概念も(吟味少な目の)「創意」(の総体)かもしれませんが、それに対する「正しく肯定的な文章」も、「正しく批判的な文章」も、わたしにはどこかよくわからないものです。もっともよくわからないのが、なぜそれらはいつも、素材集めの趣味性と洗練度を中心に論説が成立するのかという点です。調理工程(文章化)が綺麗に抜け落ちて見える本は、どれだけ「吟味的」であっても、それ自体がスペシャルティーコーヒー(の駄目な部分)とまったく何も違っていません。


乗り越え不可能に思える基礎性の高い本質的な文章らのあとで「概説」以外コーヒーの「文章」は書けるのか。素材集めの趣味性と洗練度以外、実践はあるのか。これは本来コーヒーと文献という概念をこえて、大きなものです。『コーヒー「こつ」の科学』には、メタフォリカルな精妙さがあります。私はそこに、個人的な希望を感じます。


『珈琲大全』と『コーヒー「こつ」の科学』イメージ1

『珈琲大全』と『コーヒー「こつ」の科学』イメージ2

「コーヒーに関する本で何かお勧めはありますか?」

この質問をよくお受けします。

そのたび自分は変わらず『コーヒー「こつ」の科学』の名前をあげています。

10年後にも、同じことを聞かれたら、同じ本をお勧めすると思います。(コーヒー好きの方に配ったり、自分はいままでにこの本を個人的に30冊くらいは購入していると思います)。

良い本というのは、古びません。古びない本というのは、普遍性があります。

それは、単純にそのまま本の中に書いてある言葉が普遍的だという意味ではありません。もう少し言うと、書き手と言葉との関係性が普遍的なのです。

たとえば古びてしまう本は、その古び方において、形容詞がよく目立つようになります。それはたんに言葉として選ばれた形容詞が古さを帯びるというだけの意味ではありません。(たとえば固有名詞などは、時とともにもっとも形容詞化が進行しますよね)。

良い本の条件には、固有名詞が形容詞化する過程とはべつに、行間から形容詞の要素がわずかに顔をのぞかせる感覚があるのですが、それは時間がたってから見え方が変わります。まるで、生き物のようです。

『コーヒー「こつ」の科学』ののちに書かれた本で、この本よりも歴史言語学的に批判が届かなかったり、記述学的に精緻であったりする本は、「数冊」ほど出ていると自分は思います。しかし個人的には、それらは上記の「形容詞」の質的な点において、この本にはならばないと思います。

そしてゆいいつならぶものがあるとすれば、この本の数年前に書かれた『珈琲大全』だけではないかと考えています。

繰り返しますが、この2冊は極端な話、100年後でも再読に耐えうる本であると考えます。100年後に、ハンドピックという語がグレーディングやプレパレーション、ソーティングという語以外で呼ばれていたとしても、それは何も変わりません。これら2冊の本には、言葉の新しさによって獲得された刺激とは無縁の形で、書き手と言葉との関係性から来る「圧倒的な普遍性」があると思うのです。

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