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「全体的」なコーヒー

Posted: 2021.08.24 Category: ブログ Comment: (0)

「全体的」なコーヒーイメージ1

店主です。


マルティン・ハイデッガーは主著『存在と時間』の中で、形而上学のことを「類比の統一」だと言いました。比喩的な意味から何から言って、見事な言葉だと思います。もちろん、この言葉の部分だけを取り出して話をするのも注意が必要だと思いますが、しかしそれ以上に注意が必要なのは、ひとびと(やあらゆる思考)は「類比を統一」させようとしてそうさせてきたというよりも、話をしているうちにいつのまにか自然とそうなっていったというところがある点だと思います。この意識と無意識のふたつには、とても小さな、しかし決定的な違いが存在します。どういうわけでそうなっていったかというのは、ここでは問題ではありません。問題は、問題にした瞬間に「出来事」(ゴダール)ではなくなります。そしてこのことの「問題」点は、諸条件の不一致がいつも忘れられることにあります。


『映画のよくないところは、どの映画もみな、出発点においてすでに、「すべての人」に見せることを目的としているというところにあるのです。そしてそのために、私が思うに、しばしばきわめてよくない結果におわり、人々になにも理解されないということになるのです』(ゴダール『映画史』)


コーヒーもたしかにそういうところがあるかもしれません。すべてそういうわけではない(類比は統一しない)という前提を置いても、なぜか商売的に物事にあたるとき、あるいはそれに近い出来事によってあの焦げ茶色の粉が湯通し後の飲料として形をあらわすとき、コーヒーは「すべてのひとに飲まれることを目的として」、本質的にあらわれてしまうところがあります。どうしてもそうやってあらわれてしまうところがあります。そしてこのことはもちろん、肯定であっても、否定であっても、問題にされた時点で「しばしばよくない結果」(ゴダール)に終わります。


『(映画は)そしてただ、空白の部分を残さないようなやり方で物語を語るという運動に引きずられているのです。人生を語らなければならないし、しかもそれを、きわめて凝縮されたやり方で語らなければならないというわけです。そしてそれによってとりわけ、その人生が人々の人生とどんな関係ももたなくなるようにしなければならないというわけです』(ゴダール)


「空白」という言葉には注意が必要です。これと同じ意味の言葉は、ポール・ヴァレリーが語っていました、彼がもっとも最初期の頃に書いた文章の、レオナルド・ダ・ヴィンチについての言及の箇所の中で。しかし、あきらかにヴァレリーを意識しているゴダールが、「映画」について書いていることは、わたしはコーヒーについても何か当たっているところがあると思います。わたしはとくにこの辺りのことは、焙煎について言われることなどにあらわれているような気がします。そこでの喧騒はだいたいいつも、諸条件が揃っていないときにあらわれる結果のずれであり、そのことを永遠に言い続けているような気がするものです。そして無意識のうちに、「そのコーヒーが」「どんな関係ももたなくなるように」、独自性が目指されていきます。すべての人に飲んでもらうために、(正反対にも思える)独自性が目指される。ここには強力な形而上学的磁場が、あるいは類比の統一によって仮構されたまやかしがあるような気がします。


ひとは、簡単にその焙煎のやり方はどうだとか、あの焙煎のやり方はああだ、というような事をくちにします。そのほとんどどれもが、わたしにはわからないことです。たんに知識が足りていないというところもあるのかもしれませんが、わたしにはよくわかりません。わからないといえば、焙煎というのは、焙煎機の種類によってほとんど話している言語が多国語になるくらい違ってくるというところがある点です。翻訳不可能だということではありません。ニュアンスがつねにずれ続けるということです。


わたしの場合は、いつも(というほどの機会はないかもしれませんが)焙煎についてしゃべるとき、ドイツ製プロバット焙煎機の、プロバトーンタイプツーについて語っています。あくまで、プロバトーンタイプツーの焼け方について語っています。というか、過去に使用していた焙煎機や、修行していたときに使用していた焙煎機はともかく、現在それを使って焼いているのだから当たり前のことです。しかし、わたしにはよくわからないのですが、自分の使用しているわけではない焙煎機について、じつに悠然と語る人がいます。それはほとんど自分の作ったコーヒーについて語っていないことに近い何かですが、いかにもその人の領域にあるように思われます。このことは、個人的には少し危ないと思われることです。でも、そんな危なさはもしかしたらどうでも良いことなのかもしれません。プロバット焙煎機のことで言えば、わたしは使い方をプロバトーンタイプ「ワン」を使用している人から習いました。このふたつは、一般的にはそれほど問題にされていないかもしませんが、同じプロバット焙煎機の「プロバトーンタイプ」でも、操作方法がまるで違います。完全に違う機械であるといっていいほど、まるで焼け方が違います。さらにいえば、プロバトーンタイプ「ツー」の中で限っても、2017年と2018年の間の仕様変更には、同じ名称のタイプ名の機械なのに(ほとんどそう思えないほど)見逃せないような大きな仕様変更があります。わたしは、なので「自分のしているこういう焙煎は、あなたの焙煎と比較して。。」などというときは、ほぼ同じ年式の、まったく同じサイズの焙煎機同士でしか言えないと思います。というか、同じ窯のサイズの同じ時期の焙煎機でも、煙突のつき方や長さがわずかに違うだけでコーヒーの焼け方はまるっきり変わるので、諸条件というのは揃わないと思います。それをわかった上で話すのであれば、焙煎の話というのはほとんど「抽象の中でのコミュニケート」(ゴダール)でしかありません。


『焙煎技術に関する相談の八割は、売り上げが倍になれば解決がつくのがほとんどである』(『手段と目的の区別』田口護)


問題は、何をどこまで「類比」と看做し、何をどこまで「統一」して会話がなされているかということ、そしてそれをどこまで意識しているのか、という点ではないでしょうか。しかし、わたしはこのひとつ前の文章で「問題は」とくちにしましたが、本当はそれが問題であるのかどうかもよくわからないままです。


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