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11:00 – 17:30 L.O. 17:00
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

駐車場20台

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あることとないことと

Posted: 2025.01.17 Category: ブログ

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店主です。

年末にいくらか所在なげな時間があったので、ついこのごろ買うにいたったあるヨーロッパの哲学者が手がけた論評だとか、南米出身の(おそらくは)小説家だと思われる人物の用意周到としかいえないことばにつらぬかれた文学作品(これがめっぽう面白いものでした)だとかを読んでいたことを、歳末この場所で書いたと思うのですが、そのとき目を落としていたページのうえに繰り返すように出てきた「シェイクスピア」という危険なことばにはひどく惹かれてしまって、それから年が明けたあとにもハムレットやマクベスを書いた人の論評のいくつかにまで手をのばしつつ、そういったものを立て続けに色々と読み、コーヒーを飲んで過ごしていました。

色々と読んではいたのですが、(いつもと違ううすら寒い部屋のなかの)熱中とはべつに「自分の気がかりはおそらくたぶん読んでいるもののなかにはどこにも見つからないだろうな」という予感もしていて、というのも自分は本を読みながら、読んでいる本やその本を書いたひとのことを考えていたというよりは、読み手と書き手という存在をめぐるなにかのことを考えていたからです。もっと正確にいう努力すれば、読み手と書き手というわかりやすい存在ではない、なにかとなにかの「あいだ」(デリダ)のこと、それはつまりある本屋さんに足を運んだときの気分のことかもしれなく、さらにそれはもしかしたら「書店員さんの仕事ぶり」だとか、結局そういうものに揺らされたことを本当はずっと考えているかもしれないんだよな、という自問がふつふつとわいてきたのです。本のことで、本をめぐって、そのことでいえば読み手と書き手という存在ではない人たちのなかで、ほかにたとえば編集者ということばで呼ばれる人の存在のことをいくらか考えるにいたった点も、不思議ではなかったのかもしれません。実際ただこういう種類の連想に導かれたというだけではなくて、昨今自分は編集者というひととの関わりかたが人生で一度もなかったフェーズにもいくらか足をかけていて、(それが具体的にどういう内容かはいったんわきにおいておくとしても)、とにかく「あいだ」のことをたくさん考える時間があったわけです。

編集者といえば、自分はこの国のある高度経済成長と呼ばれる時期からの際立った活動の足跡を残し、数年(もう何年かたってしまった)前に鬼籍に入られたある世界的な音楽家、その父親にあたる人が日本の文学の歴史のなかでほかに類をみないほどきわめて存在意義のある「編集者」であったことを思い出していました。彼の手がけた作家たち、手がけたというよりは世に出す手助けをしたり、それまでとはあきらかに意味の違う段階の作家活動に手を貸したひとたちの名前を挙げると、ある時期に偉大な文学者として存在しているひとたちに強力ななにかが作用していたことがわかるはずです。坂本一亀、というじつにアノニマスな(多くの人にとってあまり耳馴染みもないであろう)人物が、そのあたりの時代の文学的なもののほとんどすべてを代表していたのかもしれないということは、読み手と書き手という存在ではない人たちのことを考えていた自分にとってなにかすっぽりと落ちてしまった穴のようでした。付言していうなら自分にはこのあたりこと、つまりこういうものごととものごととの「あいだ」のことは、たんに書籍だとか文学の「読み手と書き手」の問題にとどまらす、もっと大きな意味での「作り手と受け取り手」の問題でもあると思っていたのかもしれません。それは自分がいま仕事として関わっているなにかのこと、たとえば本を読みながら飲んでいるなにかの飲み物にも、おそらくは避けがたく作用しているはずなのです。

『今の映画にしても、それからポップスにしても、あるかのように見えるけど、ないんですよ。一回解体したあとに何かを建築することはできないんで、もう一回当の壊したものを調べて直して、マニュアル化して、一から一万まで全部どうやったらこういうものをつくれるかと、ばらばらに書き直して、それを参照しながらやっているんですね。全部マニュアルなんですね、何かを作りたいという動機なんか何も感じられないわけですよ、全て。ただ作っていく本来非常に手作業の行為を、ものすごく緻密に、超テク、ハイテクでやっていく快楽に溺れているだけなんです』(坂本龍一)

コーヒーのことでいえば、自分はこの「あるかのように見えるけど、ない」というもののことについても、いくらかの思いがあります。スペシャルティコーヒーだとか、ダイレクトトレードだとか、あるいは、コーヒーの神様だとか。。「あるかのように見えるけれど、ない」という概念について、いくらかの思いがあります。しかしそんな思いなど、本当は「ない」のかもしれません。少なくともそういうものが「ある」と思っていたときにどういう気持ちだったのかも、もはや思い出せなくなってしまいました。いずれにしても、どのようなところにでも「あいだ」はあるし、あるものはあるし、ないものはないのだし。。そんなどこかで聞いたことばの意味を考えながら、「あいだ」が不在のままいつのまにか存在感やら手がけるもののクオリティやら、「職業」やらが消えていった人たちのことを静かに考えていました。

新春のごあいさつ

Posted: 2025.01.01 Category: ブログ

新春のごあいさつイメージ1

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。

新年は1/6(月)11:00よりオープンいたします。

本の森

Posted: 2024.12.31 Category: ブログ

本の森イメージ1

店主です。

12月の終わりのころ、知人にすすめられて名古屋まで出て、「品揃えに気をつかった大きな書店」(糸井重里)に足を運びました。不思議なもので、もう人にすすめられなければそういう機会が訪れることもないという気がしましたが、自分はその日のちょうどのタイミングで、わりといつも目を通しているネット記事が自分と重なり、いささか驚いたのを覚えています。寒空の下、その日はふってわいたように空いた一日だったので、(年末はいつ急に忙しくなったり暇になったりするかが自分でも読めないところがあるので)、予定していたわけでもない偶然がふたつ重なったというわけです。

『いつでも読みたい本は、ネット通販で買えると思っていた。いままでに買ったことのある本や検索した本からたどって、ぼくが興味を持ちそうな本を提案してもくれるし。いま買っている本だけでも読み切れないのに、これ以上探して買うことになるのもめんどうだからと、本屋さんに行く機会もほんとうに少なくなってはいた』(糸井重里)

そのお店の特徴は入場制度が敷かれていることで、お金を払ってひとつのスペースに潜り込んでいくという条件に、自分はどこか映画的なものを感じていました。しかし導かれるように入っていった書棚の中には、うまくことばにできないような静かな感じがありました。映画館というよりは誰もいない深い森のような、やはりうまくことばにはできない感じ。「誰がこれを揃えたのだろう」、という、目の前の本の種類たちもそうだったのですが、瞑想性の高い出来事の中にいる意識は、吸音される足元のクッション地の床の上にいることともに、なにかとても印象に残ったのです。

『品揃えに気をつかった大きな書店に行くと、「こんなのだれにも教えてもらってない」という本が、いろんな棚からぼくにウインクしてくるんだよね。つまり、「その本に見られている」と強く感じるじぶんは、やっぱりその本に対して「気がある」んだよね。じぶん自身が、その本と目が合ったがゆえに、じぶんの興味が顕在化されたというか、見えてきた。そしたら、手に取って、帯やら紹介の文を読んだり、本を開いてあとがきやら目次やらを眺めたりして、やっぱりせっかく合ったんだし買って帰ろうとなる。この「目が合った」という感じが、やっぱりいいんだよな。「興味が湧く」と言う感覚を、ライブでたのしめるからね』(同上)

ジャンルの切れ間にある、本の置き方は白眉でした。おそらくグラデーションを念頭に置いて陳列された本たちの、隣同士の地層の意味に惹きつけられたわたしは、(ウインクされた感じだったのかどうかはよくわかりませんが)、前衛的な傾向の哲学書の終わりに、最後の小説家というふうに呼ばれることもあるアルゼンチン出身の文学者の衒学的な著作があらわれたのを見て、おや、というふうに思いました。もっと具体的にいえば、ジャック・デリダの『SCRIBBLE』(翻訳されていたかどうかとかはおろか、そんな本を彼が書いていたことも知りませんでした)のまとなりに、あまり人に知られていない、後期ボルヘスの作品集がちょこんと置いてある、そんなシチュエーションに出会ったのです。

自分は、「いったい、こんなふうに本を置いたのは、どこの誰なのだろう。どうしてこんなにも、本の置き方ひとつに才気を感じるのだろうな。ただ、本を陳列するというだけで、これほどクリエイティブな仕事が生まれるものなのだろうか?」と思わざるをえませんでした。確かに中期デリダの書き物は、初期のころからは考えられないくらい急速にボルヘス化していくとしかいえないところがあって、自分はそれをこっそりと、こんなふうに陳列の仕方だけであらわそうとしている本屋さん(の店員さん)がいることに、つよく衝撃を受けたのです。『SCRIBBLE』のとなりに置かれたボルヘスの本、シェイクスピアについて書かかれた、論評なのか小説なのかエッセイなのか詩なのかまるでわからないなにかのことばたちをパラパラとめくりながら、自分ははじめて目にしたアルジェリア生まれのユダヤ人哲学者の著作、その初期と中期のあいだをつなぐ『SCRIBBLE』という名のウィリアム・ウォーバートン論(の体裁を取ったフィネガンズ・ウェイク論----というか、「論」というよりもはやフィネガンズ・ウェイクそのものに重なろうとしているように自分には見える)が、彼のキャリアの中の転換点に見えることを気にしていました。こうした「配置」の意味を考えるだけで、一生思考で遊べると思えたほどです。

たどりつくまでに入店したコーヒーショップで、サンタの格好をしたうら若き女性から「コーヒーは、お好きですか?」というふうに声をかけられ、ハートマークのついたラテを供されるなどの瑣末なハプニングはありましたが、久しぶりに街に出て愉快な気分でした。

訪問

Posted: 2024.12.23 Category: ブログ

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2024年の終わりに、コーヒー農園を訪問しました。

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フェルナン・ブローデルの読後イメージ1

店主です。

一冊の本を読んだあとで自分でも気がつかないうちに、おそらくたぶんそれによってもたらされたのだろうなと思える読後感が続いている、みたいなことがしばしばあって、(もちろんそれはかならずしも「本」という体裁をとってばかりいるわけではないので、たんに「ことば」だとかいうふうに言ったほうが良いのかもしれないけれど)、先日「アナール学派」(そういうことばの使い方に対してきわめて批評性があったのに、ヌーヴェルバーグとかいうのと同じようにまったく真逆のことばの使われ方でレッテルを貼られてしまっているひとたち)の本、もう少し具体的にいえば、フェルナン・ブローデルの本を、たまたまある鋭敏なフランス人映画作家の引用から読んでみたあとなど、その通りとしかいいようのない読後感(ずっと続くかるい酔いのようなふわふわした感じ)があったわけです。(そういう気分が何ヶ月かずっとあって)、個人的な酩酊に重なるように、同じ時期にわれわれのやっている事業地市内にすこぶる雰囲気の良いクラフトビールの会社が立ち上がる機会があって、「カフェ・アダチさんのコーヒー豆を使って、美味しいビールを作りたいんです」という素敵な依頼もあったので、スタッフの丁寧な運転で立ち上がったばかりの熱気ある工房におじゃまし、味見としょうしてたらふくビールを頂戴し、ふだんそんな機会もあまりないためにかなんとなく酔いがまわってきて、「そういえば、コーヒーと、クラフトビールって、けっこう似ているところがありますよね」という話を耳に入れながら、世界各国からやって来ていたかぐわしい麦芽の袋が積み上がった姿の倉庫をぼんやりと眺めていたところ、かくじつに酔っ払ってしまったのもあって、「あれ? コーヒー? そういえば、コーヒーって、なんのことだっけ?」などというわけのわからないゲシュタルト崩壊が起こってしまうわけです。

コーヒーは、たしか、飲み物だったはずです。なんだか表面が黒い色?をした感じの。。まわらないあたまで、わたしはかろうじてそんなことを思います。もっともそういう概念とは違う、どこか違う熱量をこめているひとも存在する気がしないでもないけれど。。それでもわたしの「正気」が正しければ、コーヒーはたしか、人間の飲み物だった気がします。それに、自分はそんなときにくわえる感想にも、どこか「例の読後感」を引きずっていました。コーヒーは、フェルナン・ブローデルが産業革命について述べたのと同じように、「一つ一つを切り離して理解しようとすれば、論争の迷路にはまり込み」、かと言って「それを寄せ集めたからといって、結局全体像がつかめるわけではない」なにかだというふうに。結局自分はコーヒーのことはよくわからないけれど、彼はこうも言いました。『みな「市場経済」について語っているのではなくて、「市場」と「経済」について語っている』(ブローデル)。一瞬だけ酔いがさめた気がします。このワンセンテンスに、いったいどれほどの批評が込められているのでしょうか?

ワンセンテンスの暴力という意味では、たとえばシェイクスピアのような人がいます。彼がぽろりとくちにしているいくつかのことばたち(きれいはきたないきたないはきれい)などは、それに挑むために、学究的な一生を費やすひとがいるようなことばです。わたしはこのあいだある小難しい本(それはとても、とても、難しい本で、もうそういうものを読むのにもほとほと嫌気がさしてきているけれども、苦虫をかんだ表情などしてまだそんな感じのものを読んでいたわけです)の中に書いてあった『ニーチェのくちにした「善悪の彼岸」ということばには、マルクスが資本論のなかでくちにしていた「自然史的立場」ということばが照応している』という文章を読んで、いくらか衝撃を受けていたのを思い出しました。衝撃というか、なんという洞察力だと思いましたが、こういうフレーズもおそらく、学術的なアプローチをすれば一生を費やすほどの困難をふくんでいます。そこには非対称的なものの対称性の問題、あるいは肯定されながら否定し、否定しながら肯定されるものごとの問題があると思います。あるいは、「構図と霊性」(小林秀雄)の問題があります。

『小林秀雄から「批評」がはじまったといいうるとすれば、まさに彼が(カントの言うところの)「視霊者の夢」(もしくはユングの言うところの「集合無意識)を、肯定しながら否定し、あるいは否定することによって肯定するという、戦略的言説をとらねばならなかったからである』(『懐疑的に語られた夢』)

戦略かどうかはわかりません。しかしコーヒーにも、これと同じ傾向のわたりかたがあると、わたしは思います。「肯定しながら否定し」、あるいは「否定することによって肯定する」というわたりかたです。ある意味、一生を費やすほどの困難です。ただ最近、自分は、もはやこういうかたちの「困難」にも、いっさいの興味がなくなってしまいました。。もう、どっちでも良い気がするし、(もしその言い方がディーセントでなければ)、どっちかで良い気がするのです。どうしてだろうと考えても、なにも理由も浮かんできませんが。。

もしかしたら批評だとかいうのにすっかりあきてしまったのか、解釈の対象というものごとのとらえかたに、とうとう倦んでしまったのか。。それとは違うなにか、ようやくことばで言えそうな何かもいささか気持ちが悪くて、酔っ払って仕事場に戻り、使いものにならない頭を捻りながら、机にうつ伏せたまま自分が考えたのはそんなことでした。

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連載「コーヒーのある時間」

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