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11:00 – 17:30 L.O. 17:00
定休日:金曜、第一木曜

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卸先訪問 喫茶ボヌール様

Posted: 2024.05.09 Category: ブログ

【卸先訪問】
喫茶ボヌール 様
〒500-8222 岐阜市琴塚2丁目8-5

 

アダチスタッフです☺️

卸先のボヌールさんにお邪魔しました☕️

 

手作りグラノーラとお豆腐マフィンと喫茶✨️

店内は綺麗で優しい雰囲気に包まれていました🫧

 

オリジナルブレンドコーヒーはアダチの豆をお使いいただいております☕️
深煎りのブレンドは、一杯一杯、丁寧にハンドドリップされています。

 

期間限定のドリンク、【きんかんジュース】
優しい甘さでさっぱりとしたドリンクです🍊

 

お豆腐マフィン、グラノーラも種類豊富でした☺️

 

定休日をご確認の上、是非訪れてみてください😌

卸先訪問 カフェ茶房宗休様

Posted: 2024.05.04 Category: ブログ

【卸先訪問】

関市 善光寺境内に建つカフェ+1にち1組限定の宿、茶房宗休さんにお邪魔しました。

 

四季の移ろいを楽しめ、今は新緑が綺麗でした🍃

 

珈琲 甘いもの 軽食

落ち着いた時間を過ごせます。

 

本日いただいた水出しアイスコーヒー。

丁寧に、時間をかけて抽出されたコーヒーは、香よく丸みのあるものでした☕️

 

キャロットラペとハムのサンドは、初期からある、こだわりのメニューだそうです✨

さっぱりとしており、美味しくいただきました🥕

 

オリジナルブレンドのコーヒー豆はカフェアダチでお作りさせていただいております。

 

お時間のある方はぜひお立ち寄りくださいね☺️

 

取り消しへの強制

Posted: 2024.04.29 Category: ブログ

取り消しへの強制イメージ1

店主です。

自分でも知らないうちに自然な流れのようなものにのって、某ポッドキャストの番組に出演することになり、そうこうしているうちに受け取ったテーマが「自分らしさ」ということだったみたいなので----もっとも不意を突かれるような題目だったということもあったので----またぞろうろたえて岐阜市神田町の珈琲屋の店主に泣きそうな顔をしながら落ち着けというようなことを言われていたのですが、そういう気持ちとは別のところで、わたしはいくつかのメッセージのやりとりのあいだにハタと手が止まり、そういえばこういう種類のことに関して、いつかどこかで何かを読んだことがあるなぁ、と思いながら記憶をたよりに本を読み返していました。「自分らしさ」で言われる「自分」というものが、「比喩」らしいのにそれが切断できないこと、そしてそれよりもっと手前にある意味強制と意味取り消しへの強制の均衡について、いくつかのことを思ったり、思い出したりしていたのです。

『比喩と比喩本来の意味と想定されているものをつなぎ合わせる「代替の連鎖」が、常に切断可能であるとは限らない。そうした連鎖は、真偽を確かめられない仮構的な推論に支えられているからである。観念の場合、それらが言語外的な諸実態を指示する名前=名詞なのか、それとも単なる言語の幻影(フィクション)なのかを決定することは不可能である。同時に、こうした問題を中吊りのままにしておくことも不可能である。意味への強制と意味取消しへの強制は、決して相殺し合うことがないからである。こうした性質上、言語はみずからが何かに関わっているのか否かを決して見極めることはできない』(『読むことのアレゴリー』)

これは『第二論文』についての考察です。かくいうわたしも、「自分らしさ」なるものを問われたとき、最初に想到したのがルソーのことばでした。「自由とは、やりたいことをやれることではなく、やりたくないことをやらなくてよいことだ」とかいう、あのことばです。そういうものが自分らしさなのでしょうか? 

ルソーがものを書くことについて、「私が世界について抱いている表象を、私が他者に伝えようとする表象に合致させること」(アラン・グロリシャール)としていたことは、この比喩と意味の困難を見極めつつ、かつその限界にまで突き当たっていたことであるようにわたしには見えます。それは、本当に「限界」です。

もうひとつ、ついこのあいだ(といっても二ヶ月くらいは前のことだと思うけれども)、わたしのお店にふらりとあらわれた人が、「自分はそれでもフレームを探す」と言い残して、その場を去って行ったことを思い出しました。わたしはそのとき、「意味への強制と意味取消しへの強制は、決して相殺し合うことがない」(ポール・ド・マン)ということばを、痛切に思い出す出来事の手前にいたのです。だから、それはもはやそれぞれの責任だとか、そういうふうに言えるかもしれないよなとくちびるを噛みながら思っていたところで、気配を感じて窓の外を見ると、ある人が笑いながら手を振っています。

わたしはドアを開けるのですが、顔を出したその人が渡してくれたのは、遠方から持ち帰りのおみやげでした。ふっくらと焼かれたコーヒー豆。裏返してそれを焼いた人の名前を見て少し、口元が緩みました。

こんにちは☺️

 

2024年3月9日にオープンしました、【パンとコーヒーの店 はじまりのうた】さんにお邪魔しました🐸

岐阜県岐阜市岩崎3−5−4

 

コーヒーは、はじまり深煎り深煎りブレンドをいただきました☕️

深い香りとコク、良質な苦味で最後まで美味しくいただきました✨

コーヒー豆はカフェアダチでお作りしております😌

マスターが一杯一杯、丁寧に淹れてくださいます♪

 

コーヒーのお供はカフェシュンカさんの絶品ココナッツメレンゲ💖

 

パンは種類豊富で迷いましたが、ベーコンエピと焼きたてのカレーパンをいただきました☺️

どちらも美味しくいただきました😋

 

カレンダーをチェックの上、ぜひ行ってみてください❗️

 

発見されたコーヒーの風景

Posted: 2024.04.15 Category: ブログ

発見されたコーヒーの風景イメージ1

店主です。

若い頃から時々読み返している『日本近代文学の起源』という本----とりわけそれに興味があるというわけでもなかったのに、二十歳になる少し前のころこの国の学術機関で日本文学を専攻するよう向かった記憶もある----について、昨今その著者が丁寧に自作の解説をしている場面を目にしたので、おや、と思って見ていました。その人がめったに自著にかんして脚注を入れることをしないひとだと知っていたからということもあったのですが、そこで取り上げている柳田國男についての注釈が、なにかとても気になったのです。その気になり方は、文学だとかいうよくわからないなにかのこととはまた違っていて、わたしはいま自分がコーヒーに対して考えていたり(考えてもいなかったり)する事柄に、少し重なっているように思えました。しかし、いまというよりかは、おそらくもっと前から。。もっとも柳田といえば『戦場のメリークリスマス』の音楽家が、彼の死の間際に『死者の書』の作家と同じくシリアスな読解をこころみた作家のはずで、なにかずっと気になっていたところもあったのです。

『柳田は、かつての日本では、大人が子どものために遊びを作ることはなかったし、昔話も子どものために作られたものではなかったと書いています。柳田は、若い頃は島崎藤村や田山花袋と一緒にロマン派として新体詩を作っていたんですね。藤村たちは、詩を自らの内面を託すものと考えていた。でもそういう考えは、短歌の題詠に慣れた柳田にとっては違和感があるものだった。“文学”以前の文学では、ロマン派的な自己や自己表現なんてものはなくて、あちこちから引用したり、あれこれを模倣したり、集まって合作したりといったことが、自在になされていたから』(『日本、近代、文学、起源 すべてをカッコに入れて』)

こういうことばが解像度高く見えたのは、自分がかつて東京の南千住のコーヒースクールに勉強のために通っていたころ、そのころを思い出していたことと無関係ではありませんでした。実際に自分は上に書かれていること、「柳田が文学に対して感じた違和感」というものを、コーヒーというものに対してずっと感じていたような気がしたのです。もう十数年も前のことにはなりますが、当時南千住の学び舎に足繁く通っていたころ、自分のまわりには「ロマン派的な見方をするひとたち」、「自己表現や自己を託すために」コーヒーを扱おうとするひとたちしか姿が見当たらず、わたしはそのことに対していくらかとまどったことを覚えています。門外漢すぎたからということもあったのでしょうが、自分にとってそのころ学んでいた飲み物は、柳田にとっての文学のように「あちこちから引用したり」「あれこれを模倣したり」「集まって合作したり」という以外のなにものでもなかったし、間違っても自己を表明するようなしろものではないと思われたのです。あのころ、自分はなにを考えていたのか? そんな気分になったのは、いくらかの時間を使って、最近の日本の都市部のコーヒー店をまわったからということとも無関係ではなかったかもしれません。現在この国の首都圏で供されるコーヒーに感じたことの大量の書き物を、喫茶星時の店主に無責任に放り投げたりしながら、わたしはあのころの気分が気になって、かつて自分がノートに書きためていたものを読み返していました。

ひとつ気になったことがあります。それは書き添えられた日付的にたしか、南千住のコーヒーのスクールの最終日を終えたとき、そのあとで学舎の同期と(当時の)WCRCのプロファイルについて少ししゃべり、それを思い返して書き出したものだったように思います。最大火力からはじまり、最小火力へと終わる焙煎----温度上昇率はいわゆるS字に近い比例ではなくてフラットな傾斜に近い----について、蒸らしをじっくりとって、水抜き終了後に火力を上げる、そういう焙煎とは真逆であるだとか、そういう焙煎は成分の悪いところを消そうとするもので、どちらが良いかとかではなく、成分の良いところを残そうとする焼き方とは真逆になるだとか、いまから思い返せば大したことはなにも語っていなかったような中、自分はこれらに対する「違和感」(柳田國男)として、かなりややこしい言葉を書き残していました。当時の文章は硬く、引用する気も起こらないのですが、わたしはあのころも今もなんとなく同じことを考えているような気がしました。

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