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焙煎にある神秘

Posted: 2023.02.07 Category: ブログ

焙煎にある神秘イメージ1

店主です。

「焙煎機はどれだけの量の豆を入れて焼けば、一番美味しく焼けますか?」

いわれたのは、たしかそんな質問でした。

わたしは同席の友人(某大工学部機械工学科卒)が、「工業製品なんだから8割に決まってるでしょ」と答えたのを聞いて、下を向いてクスクス笑ってしまいました。答えが的確だったからではありません。あまりにも、そのままの答えだったからです。面食らった質問者からは疑義があったので、それも仕方のないことと思いました。焙煎はやはりある意味で、奥が深いものだと思われているのでしょうか? わたしはその場でくちが裂けてもいえませんでしたが、納得感をおぼえない相対の人に、どこか応援的な気持ちがあることを無視できませんでした。

『安易に発せられる「奥が深い」という言葉を聞くと、私はいつも気恥ずかしい思いがする。自家焙煎など、世間がいうほどご大層なものではないと思っているからだ」(『スペシャルティコーヒー大全』)

こういう発言に関して、わたしは多くの場面で、いくつかの言い換えを見てきました。多くのひとによる、いくつかのヴァリエーションを見てきました。自分が自分に向けてつぶやくものもあったと思います。こういうものは、ごくわずかなひとたちの感想なのでしょうか? そして、「いやおかしいな」、とも思うのです。「自家焙煎など、世間がいうほどご大層なものではない」。同じ人物による、「神秘的なものではない」という言い方もあったと思います。焙煎に「拘泥」している人たちですら、おそろしく冷めた意識で、心のどこかでこれと同じに思っているところがある気がするのです。「これってばかなんじゃないか」だとか、「おれってばかなんじゃないか」だとか思っている節がある(気がする)のです。しかし一方で、焙煎は神秘的であるというふうにも思われています。それがどうしてかはよくわかりません。コーヒーにある「何かに拘泥しているケチくささ」というのは、作り手側の意識だけでなく、飲み手側に問われる意識でもあるのです。そして、作り手というのはいつも飲み手です。

先日、大きな金融機関の方としゃべる機会がありました。融資後の工業製品が「商売的な利にどれだけ寄与しているか」だとか、そういう話でした。勝手に急所をあかるみにされたような気がしたわたしは、「コーヒーの仕事の魅力は、事業規模の大小によって優劣がはかれないことだと思いますよ」だとか、そういうことをくちにした気がします。あわててたしか、そんなことをくちにしていた気がします。手元にあるカップ一杯のコーヒーは、いつもより少し苦い気がしました。そしてそのあといくつかのやりとりがすぎて、窓の外をなんとなく眺めていたわたしの耳には、「工業製品なんだから8割に決まってるでしょ」という声が聞こえる気がしたのです。

『私にとって、書くことは完璧に肯定的な行為です。何事か賛美することを言い表すのであり、憎むものを攻撃することではないのです。何かを告発するために書くというのは、最も低次元な行為です。ただし、扱おうとする問題の内部で、何かしらの疑問、納得のいかないことに必然的に突き当たるのが書くという行為だというのも真実です』(ドゥルーズ)

コーヒーの仕事の魅力は「事業規模の大小によって優劣がはかれないことだと思う」と答えた自分は、それが「拘泥」の側を救うだとか、そういう意図があるのではなかったと思います。自分ではそうは思っていませんでした。しかし、もし無意識にそう思っていたのであれば、それは少し感傷的なことです。個人的には焙煎機はただの工業製品であり、それの使い方が神がかっているだとか、そうでないとかいう議論は、こっけいだと思います。工業製品としての道具が優れた使い方をされている(はずだ)という現実を保証するのは、それが「商売的な利にどれだけ寄与しているか」だけであり、それ以外の見方(味方)はすべてフィクションです。そしてこのことは、「あいつは焙煎の天才だ」とかいうことばと同じレベルで、本当はいってもいわなくてもどちらでも良いことなのです。

神的いわれ方をしている人たちですら、自分たちを商売的に救っているのが、たんなる工業製品としての道具の使い方の「精妙さ」(グールド)だとかいうチャチなものではなく、それ以外の要素(そのほとんどが偶然的なもの)であるということは、痛いほどわかっているはずです。このことは、たしかにそうなのです。少なくとも、自分がふれる機会のあった神的いわれ方をしていたひとたちに関して言えばそうでした。ひとはどうしてかなにかを見つけては、「天才」だとか「かみさま」だとか言わずにいられないのでしょうか。そういうふうに、なぜだかいわずにはいられないのです。自家焙煎という「世間がいうほどご大層でないもの」より、このことのほうが自分にはよほど「神秘的」です。

節分コーヒー豆増量セール

Posted: 2023.02.02 Category: ブログ

節分コーヒー豆増量セールイメージ1

2/5(日)まで、節分のコーヒー豆増量セール(1.5倍)が開催中です。

お得なこの機会をお見逃しなく。

珈琲教育

Posted: 2023.02.02 Category: ブログ

珈琲教育イメージ1

店主です。

ギュスターヴ・フローベールの『感情教育』について、現代日本におけるもっとも優れた作家が、じつに興味深いことをくちにしていました。わたしは昨年『戦争と平和』などに代表されるロシア人作家のいくつかの著作を読んでいたのですが、その作家とフローベールについての、深い洞察の意見があったのです。わたしはフローベールの『感情教育』を読んで「これは完全に映画だ」と思ったのですが、それは小説作法とは微妙に違う部分で、「すでにあるものに対する苦い意識がある」だとか、そういう感想でした。つまり、それは、「批評である」ということです。

『小説でいえば、ヘーゲルの役割を果たしたのはトルストイです。彼は完全な物語を書いてしまった。これ以上の小説はないと作品自体がいっています。 そのあとにフロベールが出てきて、終わったはずの小説を書く。「感情教育」は1848年の革命を、決して物語にならないように書いたものです。物語のディコンストラクション(脱構築)として。彼以後のすべての近代小説は、終わった物語をもう一度書く、というものなんです。 ロマン(物語)が終わったという意味で、現代はアンチ・ロマンの時代だと思いますが、歴史が終わったとして、その反対の言葉は何でしょう?』(大江健三郎)

わたしは大江氏が「歴史が終わったとして、その反対の言葉は何でしょう?」と問うたこの発言に対し、ある日本人批評家が返した発言について、そのときぽつりと返された「歴史」の反対語としてのある「単語」について、しばらく考えていたことがあります。なにか特別な考察を巡らせていたわけではありません。ただ、考えていたというだけでした。

「映画はある意味表現から最も遠い」というようなことばは、『カルメンという名の女』の映画作家の発言ですが、フローベールの書いたものからは、わたしにはなにかそういう発言と同じ種類のものが感じられます。問題のフランス人作家がトルストイを意識していたのは、おそらく間違いないでしょう。『感情教育』の終わりは、『アンナ・カレーニナ』のラストと、ほとんど同じなのです。わたしにはこのことは、ガルシア=マルケスのデビュー作の冒頭と、ウィリアム・フォークナーの代表作のはじまりの場面がそっくりなのと、ほとんど同じ出来事に思えます。「終わった物語をもう一度書く」(大江健三郎)という意味で、ほとんど同じ出来事に思えます。しかし、問題の本のタイトルに「教育」Éducationということばがついていることは、なんたる精妙さでしょうか。わたしはそのことについても、いくらかのあいだ考えていました。かつて「コーヒーインストラクター2級を受験するなら、『コーヒーこつの科学』という本を読むと一番勉強になるよ」という、あまりに「教育的」な文言を誰かに言われたことを思い出したりしながら、そのことについて考えていました。かりにもしそれらのことばが「教育」Éducation であるのならば、わたしの考えている「教育」とは、違います。根本的に、何かが違います。

「教育」といえば、ヴァルター・ベンヤミンが(彼のもっとも優れた著作において)、美術作品の「本物性/本質性」(アウラ)は複製技術のあとから生まれたと指摘したのは、とても面白い考察です。絵画作品なりが教科書として編纂されて、大量に複写される形で美術教育がはじまったことは議論を待ちません。しかしそれら「教育」が本物をあてにして、(複製のように)一般大衆になにかを教えるという構図は、本来倒錯しているものです。なぜなら、「本物」という概念こそが、(アウラということばと同様)、歴史的な段階において、(コピーなどの)複製技術のあとに構造的に取り出されているからです。多くのひとが理解できないかもしれませんが、「本物」というのは、「複製」の産物なのです。しかもこのことは、(フランス文学におけるフローベールの存在がそうであったように)、「本物」(本質)の抽出が上手い人によって、完全に覆い隠されてしまいます。わたしはここまで考えてから、ヘーゲルが大論理学を「教科書」(の編纂)として書きはじめたこと、そしてそれが見事に(形式的に)頓挫したことを思い出し、いくらか面白い気分になります。

しかし、コーヒーにおける「教育」というのは何なのでしょうか? 誰かが「教育的」な口調でくちにするとおり、「コーヒーインストラクター2級を受験するには、『コーヒーこつの科学』という本を読むと一番勉強になるよ」、だとか、それくらいのものなのでしょうか? わたしにはよくわかりません。なぜならわたしはコーヒーインストラクターなる師範的資格は、一番易しいといわれる「3級」すら持っていないからです。。個人的には、当たり前に使われていることばを確かなものだと思うよりも、それがどこから生まれてどのように機能し、どこで死んでいくかを見たほうが、いくらかは「教育」になる気がします。たとえば無意識(フロイト)というものが意識されたなにかでしかないだとか、アプリオリ(本質)ということばががらくたの中から事後抽出されたなにかでしかないだとか、そういうものを注意して見たほうが、いくらかは「教育」になる気がします。しかし、それもたいしたことではないのかもしれません。どうあったところで、ひとは往々にして「注意」が欠陥して尊大になり、瑣末な出来事に足元をすくわれてしまうというのは、綿々相場が決まっているのです。

『(…)私はさっきコーヒーを飲みに出たのですが。。そのときの私の個人的な心境は、はじめて精神分析医を訪ねるときのような、あるいは、経営者のところに職をもらいにゆくときのような心境でした』(ゴダール)

これは絶頂期のゴダールの呟きです。文脈なき突如の呟きです。コーヒーは、なにかこのあたりの「喜劇的なコンテクスト」(ド・マン)を、ふくよかにあらわしている気がします。それとあと、すでにあるものごとに対する苦い意識をあらわしている気がします。

New オープン

Posted: 2023.01.28 Category: ブログ

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またひとつ素敵なお店がオープン。

【珈香】(こか)

〒484-0085
愛知県犬山市大字犬山字西古券93-2

070-9035-9959

13:00-18:00

定休日 水曜、木曜

落ち着いた店内で、穏やかな女性店主が丁寧に丁寧にコーヒーを淹れてくださいます。

淹れ方は松屋式!

とにかく静寂に浸れる空間です。

気になる方はぜひ^^

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カフェ大学冬季講座

Posted: 2023.01.20 Category: ブログ

カフェ大学冬季講座イメージ1

【カフェ大学冬季講座】

講師:樋口尚敬さん(喫茶星時)
  @hoshidoki

:小森敦也(カフェ・アダチ)

カフェ開業計画・運営支援の講座、カフェ大学冬季講座を開催します。

カフェをはじめる前、はじめたあとに大変なのが「誰ともしゃべることが出来ず、誰に相談したら良いかもわからない」ことではないでしょうか。

・人としゃべることで自分のカフェに対する思いを明確にしたい。

・自分の考えていることが現実的にどうなのか、プロや仲間からアドバイスを聞きたい。

・同じ心様を持つ人たちと、素直な意見交換をしたい。

このような思いを持った人に参加していただきたいです。

参加費:10000円(二日間)

2/10(金)、2/17(金)2回開催。
13:00-15:00

※各回の前に宿題つき。

先着5名様の、少人数講座となります。

【内容】
コンセプトシート→ 3C分析、実践のためのコンセプトシートを作成し、自分のカフェについて掘り下げます。プロから忌憚なきアドバイスを聞き放題。

開業前の方、あるいは開業したての方、具体的な内容を深掘りしたい方にとくにおすすめです。

さまざまなカフェ開業希望者を見て来た喫茶星時の樋口尚敬氏と、カフェ・アダチの小森敦也が、お互いの休日を二日間使って本気で付き合います。

熱いお申し込みをお待ちしております。

※お申し込みはカフェ・アダチまでお願いします。

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