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11:00 – 17:30 L.O. 17:00
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

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こんにちは☺️

 

2024年3月9日にオープンしました、【パンとコーヒーの店 はじまりのうた】さんにお邪魔しました🐸

岐阜県岐阜市岩崎3−5−4

 

コーヒーは、はじまり深煎り深煎りブレンドをいただきました☕️

深い香りとコク、良質な苦味で最後まで美味しくいただきました✨

コーヒー豆はカフェアダチでお作りしております😌

マスターが一杯一杯、丁寧に淹れてくださいます♪

 

コーヒーのお供はカフェシュンカさんの絶品ココナッツメレンゲ💖

 

パンは種類豊富で迷いましたが、ベーコンエピと焼きたてのカレーパンをいただきました☺️

どちらも美味しくいただきました😋

 

カレンダーをチェックの上、ぜひ行ってみてください❗️

 

発見されたコーヒーの風景

Posted: 2024.04.15 Category: ブログ

発見されたコーヒーの風景イメージ1

店主です。

若い頃から時々読み返している『日本近代文学の起源』という本----とりわけそれに興味があるというわけでもなかったのに、二十歳になる少し前のころこの国の学術機関で日本文学を専攻するよう向かった記憶もある----について、昨今その著者が丁寧に自作の解説をしている場面を目にしたので、おや、と思って見ていました。その人がめったに自著にかんして脚注を入れることをしないひとだと知っていたからということもあったのですが、そこで取り上げている柳田國男についての注釈が、なにかとても気になったのです。その気になり方は、文学だとかいうよくわからないなにかのこととはまた違っていて、わたしはいま自分がコーヒーに対して考えていたり(考えてもいなかったり)する事柄に、少し重なっているように思えました。しかし、いまというよりかは、おそらくもっと前から。。もっとも柳田といえば『戦場のメリークリスマス』の音楽家が、彼の死の間際に『死者の書』の作家と同じくシリアスな読解をこころみた作家のはずで、なにかずっと気になっていたところもあったのです。

『柳田は、かつての日本では、大人が子どものために遊びを作ることはなかったし、昔話も子どものために作られたものではなかったと書いています。柳田は、若い頃は島崎藤村や田山花袋と一緒にロマン派として新体詩を作っていたんですね。藤村たちは、詩を自らの内面を託すものと考えていた。でもそういう考えは、短歌の題詠に慣れた柳田にとっては違和感があるものだった。“文学”以前の文学では、ロマン派的な自己や自己表現なんてものはなくて、あちこちから引用したり、あれこれを模倣したり、集まって合作したりといったことが、自在になされていたから』(『日本、近代、文学、起源 すべてをカッコに入れて』)

こういうことばが解像度高く見えたのは、自分がかつて東京の南千住のコーヒースクールに勉強のために通っていたころ、そのころを思い出していたことと無関係ではありませんでした。実際に自分は上に書かれていること、「柳田が文学に対して感じた違和感」というものを、コーヒーというものに対してずっと感じていたような気がしたのです。もう十数年も前のことにはなりますが、当時南千住の学び舎に足繁く通っていたころ、自分のまわりには「ロマン派的な見方をするひとたち」、「自己表現や自己を託すために」コーヒーを扱おうとするひとたちしか姿が見当たらず、わたしはそのことに対していくらかとまどったことを覚えています。門外漢すぎたからということもあったのでしょうが、自分にとってそのころ学んでいた飲み物は、柳田にとっての文学のように「あちこちから引用したり」「あれこれを模倣したり」「集まって合作したり」という以外のなにものでもなかったし、間違っても自己を表明するようなしろものではないと思われたのです。あのころ、自分はなにを考えていたのか? そんな気分になったのは、いくらかの時間を使って、最近の日本の都市部のコーヒー店をまわったからということとも無関係ではなかったかもしれません。現在この国の首都圏で供されるコーヒーに感じたことの大量の書き物を、喫茶星時の店主に無責任に放り投げたりしながら、わたしはあのころの気分が気になって、かつて自分がノートに書きためていたものを読み返していました。

ひとつ気になったことがあります。それは書き添えられた日付的にたしか、南千住のコーヒーのスクールの最終日を終えたとき、そのあとで学舎の同期と(当時の)WCRCのプロファイルについて少ししゃべり、それを思い返して書き出したものだったように思います。最大火力からはじまり、最小火力へと終わる焙煎----温度上昇率はいわゆるS字に近い比例ではなくてフラットな傾斜に近い----について、蒸らしをじっくりとって、水抜き終了後に火力を上げる、そういう焙煎とは真逆であるだとか、そういう焙煎は成分の悪いところを消そうとするもので、どちらが良いかとかではなく、成分の良いところを残そうとする焼き方とは真逆になるだとか、いまから思い返せば大したことはなにも語っていなかったような中、自分はこれらに対する「違和感」(柳田國男)として、かなりややこしい言葉を書き残していました。当時の文章は硬く、引用する気も起こらないのですが、わたしはあのころも今もなんとなく同じことを考えているような気がしました。

おしらせ

Posted: 2024.04.11 Category: ブログ

コーヒースクール5期生

告知後またたくまに満席となってしまい、ゆっくりとホームページにておしらせもできず、申し訳ありませんでした。

イベント・スクール系のおしらせは、

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インスタグラムまたは公式LINEがもっとも早くキャッチしていただけます。

もしよろしければ、登録をお願いいたします。

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店主

コーヒーの理想

Posted: 2024.03.14 Category: ブログ

コーヒーの理想イメージ1

店主です。

就寝時のことでした。

ここしばらく気の抜けたサイダーのような日々を過ごしていましたが、知らないうちにあらわれた炭酸の弾けるような出来事を思い出して、ハッとして少し目が覚めてしまったのです。そうこうしていたら鼻水が止まらなくなってしまって、ティッシュペーパーを丸めて両方の鼻に突っ込んでいたら今度は息ができなくなり、別の意味で目が覚めてしまいます。それでもわずかに、涙目で鼻水を垂らしているあいだに(なぜか)思い出したことがありました。あるイスラエルの歴史学者が、1762年に刊行され、ジュネーブの広場で公開的に燃焼されたあるフランス語の書物について、とても面白いことをくちにしていたのです。薄ぼんやりとした意識のなか、そのことを思い出しました。それはこういうものです。

「この本(『エミール』)は、18世紀以降の人類の聖書のようなものである」。『エミール』という著作に関して、わたしの記憶が正しければ、これと同じようなことばは『読むことのアレゴリー』という本の中でもなにかがくちにされていた気がします。あのきわだった魅力のある本の中にも、なにか違う書き方で、少しだけ書いてあった気がします。そのことに関して、わたし自身もたしか、どこかになにかを書いた記憶もあります。しかし『読むことのアレゴリー』という本の著者は、本来ルソーについて書くことに関して、非常に大きなためらいをみせていました。そのためらいは、勘違いという可能性もおおいにありますが、自分にはきついほどによくわかるものです。それは理想についてなにかをくちにすることだとか、希望についてなにかをくちにすることだとかにいくぶんか関わっています。『エミール』の著者が(あの口角泡を飛ばすようなエクリチュールで)くちにしていたのは、理想とか希望とかがもっとも大切なものであり、人々は自分が思うよう生きなければならない、というものでした。この考え方は強力なものです。この考え方が「18世紀以降、聖書のように」(ハラリ)どれほど人々の生き方を固定化し、分断してきたかは、もはや誰にも正確な構図など描き出しようがないと思えるほどです。これは本当にものすごいことなのです。。このことで、人々は資本性経済というシステムを作ったり、大量虐殺の科学兵器を作ったり、社長が愛人を作ったり、詐欺師がNPO法人を作ったりしたのです。しかし、そういうものとは別の観点で、わたしはかつてこのあたりのことについて、たとえば純粋理性批判だとか、テクノロジーだとか(いう概念)から、ものごとを考えてみようとしたことがありました。結局それはコーヒーのしょぼい抽出器具に向けた当て擦りで終わってしまって、ほっぺたが赤くなってしまった記憶ですが。。しかし、わたしが物事を考えるときにとりわけ参照しているあるフランス人の映画作家は、希望だとか理想だとかいうものの見方や考え方はたんに歴史的な段階を経てあらわれてきたものであることを、繰り返し冷静に説いています。その姿はかつてアテナイの広場で、(ジュネーブの広場で燃焼された書物の反対方向からの同じような意味で)、お湯を飲むように毒を飲まされて死んでしまったある古い哲学者の姿に重なって見えてます。それらの姿には、共通した低いつぶやきのような姿、あるいは背中の見せる姿があります、それはつまり、人は人生で自分のしたいことをするのではなく、出来ることややるべきことをするのだというように。

少なくとも、「あの政治的に混乱した」「パラノイア的な仕草の」(ド・マン)『エミール』の著者の登場するまで、ある特定の人間はともかくとして、市井のひとびとは自分に課せられた役割、自分が社会に果たす役割をこなしていただけでした。人々というのは、そういうものでした。それは決して(泣きながら)「あたしの感情はどうなるんですかっ!」などということを言うものではなかったし、くちにしたところでそれがなにかだったということもありませんでした。しかし『サピエンス全史』の著者が言うように、これらのなにかは一度あわられるともはやそれ以前のことをそのファクターを外して見ることができないほど強力なものとして機能してしまったのです。ただ、(わたしは思うのですが)、人がもし本来的に希望だとか理想だとかを求めて生きるのであれば、ソクラテスはああいうふうに死ななかったのではないでしょうか? たとえば彼が(毒をあおってでも)本を出さなかった理由について、刮目するような研ぎ澄まされた知見を披瀝したことは、それが当人にとって理想であるとかないとかとは別の、人間というものに対する深く裏打ちされた洞察からの帰結にみえます。あるいは、わたしはこう思うのです。人々が希望だとか理想だとかのみを求めて生きているのであれば、コーヒーなどという飲み物は、これほど嗜好品飲料として広く世界に飲まれたのでしょうか? ルソー以降、市井にはなにか美味しいものでもくちにしたかのように、理想や希望を語る「薄い人々」(プルースト)の姿がありました。しかしそれらの一方的な主張は、(ポール・ド・マンが指摘したように)、集団煽動の作用(政治性)や、あるしゅのパラノイアに起因しています。そしてなにかしか容認できない、ひとつの立場以外に想像ができない物事のあり方・あらわれ方というのは、とても危険なことなのです。

『これ、あまり言いたくないことだけれど、コーヒーという飲み物は人間にとって本当に美味しい飲み物なのか、どっかで痩せ我慢をして美味しいと思っている奴もいるだろうって思ってます』(大坊勝治氏)

こういうことばには、なにかがあります。真実のなにかがあります。。ソクラテスが飲んだなにかです。わたしはたまたま「コーヒー」というもののことについて、考えたり(考えもしなかったり)していますが、それはただそのことだけにとどまるものではなく、ソクラテスがアテナイの広場であおって死んだものについて考えることでもあるのです。ただの気のせいかもしれませんが、両鼻に丸めたティッシュペーパーを突っ込んだまま、真夜中にひとりで考えたのはそんなことです。

あんこカフェさん

Posted: 2024.03.09 Category: ブログ

岐阜県関市本町にある、あんこカフェさんのお弁当をテイクアウトしました🍱

ローカロリーでも満足できるように工夫されています✨

糀(こうじ)仕込みで腸内環境が良くなるように考えて作っているので、ダイエット中の方や減量中、健康に気を使うシニアの方、ヘルシー志向の方にピッタリなテイクアウト弁当です😋



そんなあんこカフェさんに講師を務めていただく【カフェをはじめてみませんか?】
は4/15(月)13:00-14:30です❗️

カフェを始めようと思ったきっかけ、カフェ開業までの道のりやこれからカフェを開業する方へ向けたメッセージなどをお話しいていただきます。

開業に興味がある方、あんこカフェさんのお話を聞きたい方におすすめです😉

まだまだ募集中です☺️
公式LINE、またはお電話(0575-23-0539)
にてお待ちしております♪

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