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定休日:金曜、第一木曜

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遭遇する出来事の焼成

Posted: 2024.10.06 Category: ブログ

遭遇する出来事の焼成イメージ1

店主です。

毎年この時期になると、ひょんなひとたちから決まって「アジア最大級の国際見本市には行かれますか?」だとか、「国際展示場駅で会えませんか?」とかいうことばを一定数投げられることになります。そしてそのたびに、自分はなにかの感想を持たないではない(もしかしたら何の感想も持ち合わせていないのかもしれない)そのしゅの出来事(との距離感)にめまいがしながらも、いちおうそれなりに気の利いたことをいおうとして----大抵の場合徒労とは釣り合いもなく滑って終わる----、というのを、ここ何年か繰り返していることに気がつきます。このあたりのめまいがしそうな出来事(に向けた距離感)のことを思うとき。。(それが自分自身のものなのか、そうじゃないのか、傾向としてこういうものごとのそばにあるものなのか、そのことはよくわからないとしても)、自分はある「途方もなさ」についてのことだったり、あるいは、ある「誠実さ」だとか、「ちからのなさ」について考えるよりほかないのですが。。この「ちからのなさ」というのがまた、このごろあった「もっとも特筆すべき出来事」の総体的な印象でもあったので、(想像もしていなかったことと、想像していたことの感想が完全に重なってしまったことにたいする、いいようのない違和感もあったと思うのですが)、手元にある飲みかけの「コモデティコーヒー」の味も、いくらかせつないものに感じてしまいます。

『パンは小麦粉から作られます。オーブンに入れたときに、小麦粉がどのようにパンになるのかが、ブッダにとってはもっとも大事なことでした。私たちは、どのように悟りをひらくのか? ここがブッダの、最大の関心でした。悟りをひらいた人、というのは、ブッダにとっても、またほかの人にとっても、完全で、望ましい人でした。人間は、どのように理想的な人格を発達させることができるのでしょうか? どのようにして過去の聖者たちは、聖者になったのでしょうか。パンの生地が、どのように完全なパンになるのか見つけるために、ブッダは自分で、何度も何度もパンを作ってみたのです』(『禅マインド ビギナーズ・マインド』)

自分はある哲学者がくちにした、「人類に共通する最大の弱さは、意味もなくなにか求めてしまうことだ」、ということばを思い出しながら、そのころちょうど気にしている人がどこかに現れたり、どこかからいなくなったりするといった、いくつかの場面を目にして過ごしていたわけです。人に共通する最大の弱さは、意味もなくなにか求めてしまうこと。。上の引用でいわれる「パン」というのは、もちろんいわゆる「パン」のことではありません。それはつまり、「比喩としてのパン」なのですが。。しかし、パンそのもののたとえよりも、わたしはかつて「パン焼き器」だとか、「オーブン」だとかいう比喩で、自分に向かってなにかをくちにしたひとのことばのこと、わすれがたいあることばのことを思い出します。

『いずれにしろ、私たちは、じっとしていることはできません。。なにかをしなければならない。そのとき、(大切なことは)、自分を観察し、注意し、そしていま、ここの、自分に気づいていることです。私たちの方法は、パンの生地をオーブンに入れ、そして、注意して見守ることなのです。どのようにパンの生地がパンになるのかわかれば、悟りを理解できるようになるでしょう』

自分がパンそのものであるひともいれば、パンを焼くために生きているようなひともいる。そもそも、パンを焼くには、焼くためのものが必要です。「高級パン焼き器が、ルンバになろうとしてもなれない」。それがわたしが聞いた、忘れがたい比喩の話です。ひとの性質のことでいえば。。たしかに、パン焼き器ではなくて、ルンバのようなひともいます。あちこち動き回って、何かを吸い込むのを使命としているようなひとたちのことです。わたしもかつて、自分のことをルンバかなにかだと思っていたのですが。。それがそうでもなかったと気づいたとき、かたわらにはコーヒーがありました。

さきの哲学者や、上の高僧のつぶやきのように、ひとは自分のことをこねくりまして、永久に焼けないパンのまま、パン生地のままでいようとしているところは、確かにあるわけです。しかし、人生はただなにかをこねくりまわしていれば、あるいはただなにかを寝かせていればいいというわけでもありません。そして人生が面白いのは、そういうタイプの人が、高級パン焼き器に出会った瞬間あっという間に焼成して素晴らしいパンになってしまうことがあるところです。

自分はこの数週間のうちに、(比喩ではなく)死にかけたり、もう二度と会うことはないだろうなと思っていたひとと遭遇したり、おんなじことが起こってうんざりするだろうなと、起こる前からあるものごとに対してうんざりしながら、高級パン焼き器の誰かが、特性からはずれて自走するルンバになっているさまを見ていました。それはもしもう一度そのひとに会う機会があれば、自分はこう思うけどと伝えてみようと思った事柄でした。

1.5倍増量セール

Posted: 2024.10.05 Category: ブログ

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ハロウィンブレンド

Posted: 2024.10.05 Category: ブログ

10/1より季節限定のブレンドコーヒーが登場します🍂

🎃ハロウィンブレンド🎃
収穫祭のイメージにふさわしい、穀物感たっぷりの香ばしいブレンドです☕️
秋のお菓子にもよく合います😋
中深煎りです

ぜひお試しください✨

キャラメルプリンオーレ

Posted: 2024.10.05 Category: ブログ

10月より新しいアレンジコーヒーが登場します❗️

【キャラメルプリンオーレ】

カフェオレに濃厚な滑らかプリンを合わせました🍮

生クリームとキャラメルソースをトッピング😋

満足感のあるドリンクです✨

是非お試しください!

テイクアウトもできます。

※数量限定です。売り切れの際はご容赦ください。

それぞれの思うコーヒー

Posted: 2024.09.13 Category: ブログ

それぞれの思うコーヒーイメージ1

店主です。

コクウ珈琲の篠田さんと、ユイルコーヒーの竹中さんをゲストに迎え、カフェ・アダチでトークイベントが開催されました。自分にとって大先輩と大後輩(というのも不思議な文言だけども)にあたるおふたりにわざわざお越しいただくという、恐縮きわまりないかたちで会はすすみましたが。。内容として、イベントは最初に参加者さまに質問用紙を配って、寄せられたものを司会者にひろってもらい、3人で答えたり、かわしたり、脱線したり、ふくらませたりしながら、色々と好きにしゃべっていきました。

『いったい誰が、「質問は答えを呼びよせる」、などといったのですか? 辞書? 《質問》の項目には、質問は答えを要請するとは記されていません。(むしろ「辞書」だとかに象徴されるような)、「そうしたシステム」がはばをきかせているというだけのことです。わたしは「言葉」よりはむしろ、「言葉の音をともなった映像のシステム」をとります。つまり、「映画」をとります』(ゴダール)

『エクリチュールと差異』の著者はたしか「言明は単純な主語と述語の並置ではありえない」とくちにしたはずだったし、ほとんど同じようなことばとして、パリ・コニャック=ジェ通りに生まれのちにスイスに移った映画監督は、「私は映画をとる」といいました。自分はなにもいうことがないので、せいぜいこのあたりのことを誰がどんなふうにくちしていたか、記憶のなかからいくつか取り出せないか考えてみます。自分が過去に読んだり見聞きしたりしたことのなかから、そういうものが、どこかになかっただろうかと思いながら。。たとえば個人的に話していることばが面白いと思うひとに、鈴木俊隆というひとがいるのですが、彼は、こういうふうにくちにしました。「仏教という名前ですら、われわれの修行の汚点になる」。なんとなく、自分も同じことを思います。コーヒーという名前が、コーヒーという名前すら、(そのことはかなりきわどいとはいえ、もしそう呼ばれるものが自分が仕事でかかわっている出来事なり商品なりに向けられた呼称だとすれば)、なにかひどい汚点に感じるのです。

『禅宗では、「もし道でブッダに出会ったら、殺してしまえ」と言う。もし霊的な道を歩んでいる間に、制度化された仏教の凝り固まった考えや、硬直した戒律に出くわしたら、それからも自分を解放しなければならないということだ』(ユヴァル・ノア・ハラリ)

しかし、(あるいはこれはひどく困ったことかもしれませんが)、自分はそれを「解放」だとも思いませんでした。なぜなら、そもそもコーヒーは何ものにも縛られていないし、逆にいえば縛られている以外に、抜け出す先などありえないからです。かくいうわたしも、昔はなにかがあると思っていました。コーヒーのはてには、コーヒーをやっていれば、どこかのなにかに出会うような気がしていたのです。あるいは、どこかにいけるのではないかという気がしていました。しかし実際そこには、「ブッダのいる道」(ハラリ)すらなかったし、こういってよければ、媒介のようなものがいつも行き止まりを演出したのです。媒介といえば、ルソーは『告白』のなかで、「それを抹殺する」というようなことばをくちにしました。かなりつよい調子で、はげしい調子でくちしました。

『いったい誰が、「質問は答えを呼びよせる」、などといったのですか? 辞書? 《質問》の項目には、質問は答えを要請するとは記されていません。「そうしたシステム」がはばをきかせているというだけのことです』

コーヒーについて、ひとつなにかをいわなければならないとしたら、「そうしたシステムがはばをきかせているというだけ」(ゴダール)なら、わたしもルソーと同じく、「媒介の抹殺」ということばを選びます。それそのものの表現なのか、その関係性を言おうとしているかはともかくとして、おそらくそういうことばを選びます。そうやって選ぼうと思っていたはずなのに、たまたまこのタイミングで手にした本、自分がコーヒーに関してもっとも感覚的に影響を受けているはずの『コーヒーこつの科学』の著者が、目下もっとも新しい本のあとがきのなかで

「自分は(コーヒーで遊んできたのではなく)、コーヒーに遊んでもらってきた」

と、くちにすることばを見つけて、誰かにぶつけようとする勢いで火を放っていた手榴弾で、間違って自分を爆砕したような気持ちになりました。「自分は、コーヒーに遊んでもらってきた」。これはおそらく、主体的なコーヒーの遊戯に向けた、完璧なアンサーなのです。コーヒーに関して、個人的なものとして、自分はこの感覚よりも近い何かを思うことができません。。自分はコーヒーになにかをしようとしたり、コーヒーでなにかをしようとしたことは、(もしかしたらほんの何回かはあったのかもしれないけれど)、あるいはなにかができたことは、おそらくいままでに一度もありませんでした。わめきながら、ぶうぶういいながら、行き過ぎると無視されたり、たまに適当にあたまをなでられるなどして、自分はたしかに、ずっとずっと、コーヒーに遊んでもらってきたのです。

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連載「コーヒーのある時間」

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