店主です。
年末にいくらか所在なげな時間があったので、ついこのごろ買うにいたったあるヨーロッパの哲学者が手がけた論評だとか、南米出身の(おそらくは)小説家だと思われる人物の用意周到としかいえないことばにつらぬかれた文学作品(これがめっぽう面白いものでした)だとかを読んでいたことを、歳末この場所で書いたと思うのですが、そのとき目を落としていたページのうえに繰り返すように出てきた「シェイクスピア」という危険なことばにはひどく惹かれてしまって、それから年が明けたあとにもハムレットやマクベスを書いた人の論評のいくつかにまで手をのばしつつ、そういったものを立て続けに色々と読み、コーヒーを飲んで過ごしていました。
色々と読んではいたのですが、(いつもと違ううすら寒い部屋のなかの)熱中とはべつに「自分の気がかりはおそらくたぶん読んでいるもののなかにはどこにも見つからないだろうな」という予感もしていて、というのも自分は本を読みながら、読んでいる本やその本を書いたひとのことを考えていたというよりは、読み手と書き手という存在をめぐるなにかのことを考えていたからです。もっと正確にいう努力すれば、読み手と書き手というわかりやすい存在ではない、なにかとなにかの「あいだ」(デリダ)のこと、それはつまりある本屋さんに足を運んだときの気分のことかもしれなく、さらにそれはもしかしたら「書店員さんの仕事ぶり」だとか、結局そういうものに揺らされたことを本当はずっと考えているかもしれないんだよな、という自問がふつふつとわいてきたのです。本のことで、本をめぐって、そのことでいえば読み手と書き手という存在ではない人たちのなかで、ほかにたとえば編集者ということばで呼ばれる人の存在のことをいくらか考えるにいたった点も、不思議ではなかったのかもしれません。実際ただこういう種類の連想に導かれたというだけではなくて、昨今自分は編集者というひととの関わりかたが人生で一度もなかったフェーズにもいくらか足をかけていて、(それが具体的にどういう内容かはいったんわきにおいておくとしても)、とにかく「あいだ」のことをたくさん考える時間があったわけです。
編集者といえば、自分はこの国のある高度経済成長と呼ばれる時期からの際立った活動の足跡を残し、数年(もう何年かたってしまった)前に鬼籍に入られたある世界的な音楽家、その父親にあたる人が日本の文学の歴史のなかでほかに類をみないほどきわめて存在意義のある「編集者」であったことを思い出していました。彼の手がけた作家たち、手がけたというよりは世に出す手助けをしたり、それまでとはあきらかに意味の違う段階の作家活動に手を貸したひとたちの名前を挙げると、ある時期に偉大な文学者として存在しているひとたちに強力ななにかが作用していたことがわかるはずです。坂本一亀、というじつにアノニマスな(多くの人にとってあまり耳馴染みもないであろう)人物が、そのあたりの時代の文学的なもののほとんどすべてを代表していたのかもしれないということは、読み手と書き手という存在ではない人たちのことを考えていた自分にとってなにかすっぽりと落ちてしまった穴のようでした。付言していうなら自分にはこのあたりこと、つまりこういうものごととものごととの「あいだ」のことは、たんに書籍だとか文学の「読み手と書き手」の問題にとどまらす、もっと大きな意味での「作り手と受け取り手」の問題でもあると思っていたのかもしれません。それは自分がいま仕事として関わっているなにかのこと、たとえば本を読みながら飲んでいるなにかの飲み物にも、おそらくは避けがたく作用しているはずなのです。
『今の映画にしても、それからポップスにしても、あるかのように見えるけど、ないんですよ。一回解体したあとに何かを建築することはできないんで、もう一回当の壊したものを調べて直して、マニュアル化して、一から一万まで全部どうやったらこういうものをつくれるかと、ばらばらに書き直して、それを参照しながらやっているんですね。全部マニュアルなんですね、何かを作りたいという動機なんか何も感じられないわけですよ、全て。ただ作っていく本来非常に手作業の行為を、ものすごく緻密に、超テク、ハイテクでやっていく快楽に溺れているだけなんです』(坂本龍一)
コーヒーのことでいえば、自分はこの「あるかのように見えるけど、ない」というもののことについても、いくらかの思いがあります。スペシャルティコーヒーだとか、ダイレクトトレードだとか、あるいは、コーヒーの神様だとか。。「あるかのように見えるけれど、ない」という概念について、いくらかの思いがあります。しかしそんな思いなど、本当は「ない」のかもしれません。少なくともそういうものが「ある」と思っていたときにどういう気持ちだったのかも、もはや思い出せなくなってしまいました。いずれにしても、どのようなところにでも「あいだ」はあるし、あるものはあるし、ないものはないのだし。。そんなどこかで聞いたことばの意味を考えながら、「あいだ」が不在のままいつのまにか存在感やら手がけるもののクオリティやら、「職業」やらが消えていった人たちのことを静かに考えていました。