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11:00 – 17:30 L.O. 17:00
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

駐車場20台

© Cafe Adachi

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フェルナン・ブローデルの読後イメージ1

店主です。

一冊の本を読んだあとで自分でも気がつかないうちに、おそらくたぶんそれによってもたらされたのだろうなと思える読後感が続いている、みたいなことがしばしばあって、(もちろんそれはかならずしも「本」という体裁をとってばかりいるわけではないので、たんに「ことば」だとかいうふうに言ったほうが良いのかもしれないけれど)、先日「アナール学派」(そういうことばの使い方に対してきわめて批評性があったのに、ヌーヴェルバーグとかいうのと同じようにまったく真逆のことばの使われ方でレッテルを貼られてしまっているひとたち)の本、もう少し具体的にいえば、フェルナン・ブローデルの本を、たまたまある鋭敏なフランス人映画作家の引用から読んでみたあとなど、その通りとしかいいようのない読後感(ずっと続くかるい酔いのようなふわふわした感じ)があったわけです。(そういう気分が何ヶ月かずっとあって)、個人的な酩酊に重なるように、同じ時期にわれわれのやっている事業地市内にすこぶる雰囲気の良いクラフトビールの会社が立ち上がる機会があって、「カフェ・アダチさんのコーヒー豆を使って、美味しいビールを作りたいんです」という素敵な依頼もあったので、スタッフの丁寧な運転で立ち上がったばかりの熱気ある工房におじゃまし、味見としょうしてたらふくビールを頂戴し、ふだんそんな機会もあまりないためにかなんとなく酔いがまわってきて、「そういえば、コーヒーと、クラフトビールって、けっこう似ているところがありますよね」という話を耳に入れながら、世界各国からやって来ていたかぐわしい麦芽の袋が積み上がった姿の倉庫をぼんやりと眺めていたところ、かくじつに酔っ払ってしまったのもあって、「あれ? コーヒー? そういえば、コーヒーって、なんのことだっけ?」などというわけのわからないゲシュタルト崩壊が起こってしまうわけです。

コーヒーは、たしか、飲み物だったはずです。なんだか表面が黒い色?をした感じの。。まわらないあたまで、わたしはかろうじてそんなことを思います。もっともそういう概念とは違う、どこか違う熱量をこめているひとも存在する気がしないでもないけれど。。それでもわたしの「正気」が正しければ、コーヒーはたしか、人間の飲み物だった気がします。それに、自分はそんなときにくわえる感想にも、どこか「例の読後感」を引きずっていました。コーヒーは、フェルナン・ブローデルが産業革命について述べたのと同じように、「一つ一つを切り離して理解しようとすれば、論争の迷路にはまり込み」、かと言って「それを寄せ集めたからといって、結局全体像がつかめるわけではない」なにかだというふうに。結局自分はコーヒーのことはよくわからないけれど、彼はこうも言いました。『みな「市場経済」について語っているのではなくて、「市場」と「経済」について語っている』(ブローデル)。一瞬だけ酔いがさめた気がします。このワンセンテンスに、いったいどれほどの批評が込められているのでしょうか?

ワンセンテンスの暴力という意味では、たとえばシェイクスピアのような人がいます。彼がぽろりとくちにしているいくつかのことばたち(きれいはきたないきたないはきれい)などは、それに挑むために、学究的な一生を費やすひとがいるようなことばです。わたしはこのあいだある小難しい本(それはとても、とても、難しい本で、もうそういうものを読むのにもほとほと嫌気がさしてきているけれども、苦虫をかんだ表情などしてまだそんな感じのものを読んでいたわけです)の中に書いてあった『ニーチェのくちにした「善悪の彼岸」ということばには、マルクスが資本論のなかでくちにしていた「自然史的立場」ということばが照応している』という文章を読んで、いくらか衝撃を受けていたのを思い出しました。衝撃というか、なんという洞察力だと思いましたが、こういうフレーズもおそらく、学術的なアプローチをすれば一生を費やすほどの困難をふくんでいます。そこには非対称的なものの対称性の問題、あるいは肯定されながら否定し、否定しながら肯定されるものごとの問題があると思います。あるいは、「構図と霊性」(小林秀雄)の問題があります。

『小林秀雄から「批評」がはじまったといいうるとすれば、まさに彼が(カントの言うところの)「視霊者の夢」(もしくはユングの言うところの「集合無意識)を、肯定しながら否定し、あるいは否定することによって肯定するという、戦略的言説をとらねばならなかったからである』(『懐疑的に語られた夢』)

戦略かどうかはわかりません。しかしコーヒーにも、これと同じ傾向のわたりかたがあると、わたしは思います。「肯定しながら否定し」、あるいは「否定することによって肯定する」というわたりかたです。ある意味、一生を費やすほどの困難です。ただ最近、自分は、もはやこういうかたちの「困難」にも、いっさいの興味がなくなってしまいました。。もう、どっちでも良い気がするし、(もしその言い方がディーセントでなければ)、どっちかで良い気がするのです。どうしてだろうと考えても、なにも理由も浮かんできませんが。。

もしかしたら批評だとかいうのにすっかりあきてしまったのか、解釈の対象というものごとのとらえかたに、とうとう倦んでしまったのか。。それとは違うなにか、ようやくことばで言えそうな何かもいささか気持ちが悪くて、酔っ払って仕事場に戻り、使いものにならない頭を捻りながら、机にうつ伏せたまま自分が考えたのはそんなことでした。

我が闘争に思う

Posted: 2024.11.13 Category: ブログ

我が闘争に思うイメージ1

店主です。

先日自分が古くから文学作品を読むときにいくらか参考にしてきた人が亡くなられて、その人に向けた追悼に触れる機会がありました。その人本人よりも、自分はどちらかといえば彼のふたつ世代がうえにあたる人たち、たとえば『意味という病』だとか、『表層批評宣言』だとかいう本の著者のほうにはっきりと影響を受けていた気がするのですが、まさかそのお二人よりもずいぶん若いと思っていたくだんの人物の追悼文を、さきに目にするとは思ってもみませんでした。このことは、自分にとっては驚きでした。うまくことばが見つからないような種類の驚きです。ちょうど二世代ほどずれているこの三人の関係性もとても興味深いものだったのですが、わたしが触れた追悼のことばを書いたのはその間の世代に位置するある文学評論家のもので、彼が問題の著述家の著書を徹頭徹尾「アジビラ」と評していたのも、自分には深く印象的でした。それに「アジビラ」ということばを聞いて、わたしは二つのことを思い出しました。ひとつは、亡くなった著述家の著作を「アジビラ」と評したその文学評論家に向けて、自分はおそろしく若い頃に、(本人の承諾を得た上で)、ある文学作品の論評を(当時彼のいた大学の研究室宛に)送った記憶があるということです。それに返事はありませんでした。

もうひとつ。自分はあるとき読んだ本のことを、読み終わりまでずっと「いつまでこのアジビラが続くのだろう」と感じていたことを思い出したのです。なんとなくそんなふう思ったことに該当しそうな本を片っ端から(というほどでもなかったかもしれないのだけれど)読んで、ついに思い出したぞ! と見つけたのが、第二次世界大戦下のドイツのある権力者が記した、『我が闘争』という本でした。その本は、いま読み返してみても、そのころと感想がほとんど変わらない感じにかえってうろたえてしまったのですが。。そんなおりわたしはいまの仕事についてから関わることになった「コーヒー」というなにかの、そしてそのことばの使われているゆいいつの箇所を、その本の中に偶然のように見つけて止まってしまいました。

『わが国の場合のように、もともとうぬぼれ屋の愛国団体員や俗物的なコーヒーハウスの政治屋のまったく実現見込みのない、純粋な空想的おしゃべりが問題でしかない時には、とくにそれに妥当する。なにしろ新しい艦隊や、わが植民地の回復等々を要求する叫び声が、現実には単に無思慮なおしゃべりであるに過ぎず、実際に実行できる考えなどかれらはただの一つももたないのであるが、このことは静かに考慮すればおそらく少しの異議も唱えられぬに違いないからである。しかしイギリスにおいて、この半ばは無邪気な、半ばは正気でない、だがつねにわれらの不俱戴天の敵に内々では奉仕している抗議戦士達のまったくとんまな真情吐露が政治的にどれほど利用し尽されているだろうか、このことはドイツに有益だと呼ぶわけにはゆかない。かれらはこのように神と全世界に対する有害なデモめいたものによって疲れはて、すべて効果を収めるための前提である次のような第一原則を忘れている』(『わが闘争』アドルフ・ヒトラー)

自分は当時いくらか微妙な気持ちで目にしていたはずのその本の中で、彼がまさか「コーヒー」ということばを使って何か話しているとはゆめにも思いませんでした。この文章の微妙さはいうにおよばずですが、奪われたイギリス領アフリカ(イギリスの委任統治領としてのタンザニア)について触れていく彼が、その皮切りとなる文章で、「コーヒーハウスの政治屋」という文言をわざわざ使った点は、とくに微妙です。

『敵は予想すべきことであったことをただ行なっているに過ぎない。かれらの態度と行為から、われわれは学んでもよさそうなものである。しかし、このような見解の卓抜さを認めることをあくまで拒否しようとするものは、そうなれば将来永遠にあらゆる同盟政策が除去されるのだから、したがってまったく断念することしか道は残っていないことを、最終的になお熟考してもよいだろう。というのは、イギリスはわれわれから植民地を奪ったのだから、われわれはイギリスとは同盟できない』(ヒトラー)

戦後のドイツコーヒーの歴史から見ても微妙ですが、わたしが考えたことはもう少し別の事柄でした。アドルフ・ヒトラーは、(ことによれば)、フランス革命のやり直しを、たった一人でやろうとしたのではないでしょうか? しかも、20世紀の真ん中に向かっているなどという、ありえない地点の場所で。。自分はそんなことを考えてしまいました。この本の中で彼の言おうとしていることはすべて「アジビラ」だとしても、「博愛」ということばの正反対の概念をすべての行動と言動であらわしていた彼が、「コーヒー」ということばをフランス革命の端緒に向けた皮肉として使った事実は、見逃せないものです。

そんなわけで読みたい本やら何やらは大量にあふれ、山積みになり、そんなの自分でやったら、と言われてしまう内容にも毎年のようにこのくらいの時期からコーヒー豆の受注がとても多く捌けるものも捌けないので、相変わらず焙煎機に「ぶうん」という音で、静かに火を入れる日々です。

こっそり帰ってきた、小森の部屋イメージ1

こっそり帰ってきた、小森の部屋イメージ2

【イベント開催のご案内】

「こっそり帰ってきた、小森の部屋」

「小森の部屋」。。かつてカフェ・アダチで開催された「小森の、小森による、小森と話したい人のための部屋」。実際は当時のスタッフの社長イジリからはじまった企画に訪問者多数。好きに火を吹いて行かれたため、草ひとつ生えない焼け野原と化した部屋。

あれから時は流れ。。

「個人事業をはじめたい方」
「もしくは、はじめた方で人に聞いてほしい話をお持ちの方」
に限定し、「小森の仕事部屋」(こもりのしごとべや)にリニューアルしてすっかり気を抜いていたところ、

・それでもコーヒー論争を片手に、形容し難いご様子で挑んでみえる方

・人生相談で、ボロボロに泣き崩れる方

などの不意打に遭ったため、このさい覚悟を決めて、ガス抜き成敗をする運びと相成りました。

とはいえ再開は、「こっそりと」。

まずは、「喫茶星時」さんにてお待ちしています。

【開催場所】
喫茶星時
岐阜市神田町3-3 加藤石原ビル2F
※カフェ・アダチではないため、ご注意下さい。

【開催日時】
11/25(月)13:00-16:00
(お一人様30分程度)

「喫茶星時さん店内のどこか」にいる、小森の捕獲をお願いします。

※予約は受付しておりません。

【参加費】
これといって無価値な小森と話すのは「無料」ですが、星時さんにワンドリンクだけオーダーをお願いします。

【部屋にいる人】
小森敦也(カフェ・アダチ/カフェふくろう代表)

【こんな人に来てもらいたい】    
どなたでも結構です。

①人生相談などなんでも。小森と話したい方、ご訪問ください。

②べつだん小森でなくてもいいけれど、誰にも聞いてもらえない「魂の叫び」をお持ちの方。
歓迎します。

③コーヒーについて、「いかにもややこしい、用意周到かつ紛らわしい話」をされたい方。
大歓迎です。

一生懸命耳を傾けますので、どうぞ好きなことをお話しください。

【ご注意事項】
・小森は本を読んだりしている時がありますが、気にせずご来店ください。

・万全の注意を払っていますが、もし寝ていたらそっと起こしてください。

・予約は受付しておりません。先着者がみえた場合には、星時さんでドリンクを飲んでお待ちください。

・真剣な話は、真剣に聞きます。

・ふざけた話も、真剣に聞きます。

皆様の訪問をお待ちしております。

具体的な物語

Posted: 2024.10.15 Category: ブログ

具体的な物語イメージ1

店主です。

この季節になると、仕事の必要性に駆られて、「コーヒーの歴史」について、(どちらかといえばそれは「コーヒーの歴史」ではなくて、「コーヒー」と「歴史」、かもしれないけれども)、いくらかの本の読み直しをしています。そうはいっても結局そんなことはいつもしていることなのだし、あるいはいつもしていると意識すらしていないことなので、平常時よりもほんの少しだけ意識的にそうしているだとか、それくらいのことかもしれないのですが。。そんなわけで、「アナール学派」(そういうことばの使い方に対してきわめて批評性があったのに、ポスト構造主義とかいうのと同じようにまったく真逆のことばの使われ方でレッテルを貼られてしまっているひとたち)のいくらかの本を読んでいたのですが。。その中に、いつもよりいくらか意識する文章を見つけていました。

「マルクスは資本論のなかで「資本主義」ということばを一度も使ったことはないし、なんなら生涯をかけてそんなことばをくちにしたことはない」。1967年にフェルナン・ブローデルがそのようにくちにしたとき、このことばの意味は、世の中にまったく理解されませんでした。本当に、まったく理解されませんでした。。せいぜい「歴史的な事実」として、「本当かな?」などいうふうにページをめくってそれを確かめる緻密なひとがいただとか、そんな程度の作業しかありませんでした。「資本論の著者」といえば「資本主義の教義を明らかにした」などというふうに、現在ほとんどのひとが簡単にくちにするのでしょうが、繰り返しますがマルクスは資本主義などということばをくちにしたことはないのです。『資本論』(1867年)から、ブローデルがこのことを指摘する1967年まで(この年には、『グラマトロジーについて』も出版されている。。)のちょうどぴったり100年ものあいだ、何の批評性もないまま、「資本論とは、資本主義の教義について書かれており。。」だとかいう言説が、なにかの見本のようにいわれていたのです。このことの意味が分かるでしょうか。繰り返しますが、マルクスは資本主義などということばをくちにしたことはないのです。ページをめくってそれを確かめるとかいう作業ではないところで。。このことばの意味がわかるひとはいるのでしょうか?

『年号や人名の暗記など、私は重視しない。私は物語が好きだ。具体的な物語で、よく書きこまれているのがいい』(ブローデル)

たとえば、ジャン=リュック・ゴダールというひとはわかっていました。実際に『映画史』以降のゴダールは、(歴史というものに関して)ずっとヘーゲルからブローデルのよみかえをやっているように見えるのです。引用の多さだけではなくて、わたしにはそのように見えるのです。それは「ことば」があらわれてしまうことで、それ以前の状態には戻れない感覚のこと。。あるいは、対象ははっきりとするのに、かえってそのことそのものを根底から疑えなくしてしまうなにかのことです。なんとか主義だとかかんとか主義だとかの構図づくりしかできないひとたちは、このことの意味をもう少し真剣に考えてみたほうが良いのかもしれません。。ちなみに「ことば」を「人間の生」とよみかえると、このことは死生観までふくめて、後期のゴダールの作品に貫かれているなにかにつながります。

『時間だけが拒絶されながら死の門前に立つ。ちょうどその時、尽きることのない良心が、容赦なく私を非難する。良心は嘘をつき、時間は運命を断罪する。弱々しい悔恨が、私の目を曇らせる。だが活気により私は憩いを見出し、荒れ狂う海を逃れ、静穏な永遠にあらゆる憂悶をつなぐ』(エミリー・ブロンテ)

コーヒーのことでいえば、わたしは(以前も書きましたが)スペシャルティなんとかだというなにかに(この季節に決まって)某かのひとびとに絡まれることになるのですが。。結局それに対する優れた批判さえ、ほとんどどうでも良いことに思えます。なぜなら、スペシャルティなんとかに対するもっともよく出来た批判は、(ことばにおいて)「素材の趣味性や、洗練度に依存している」(デリダ)という点で、批判の対象とまったく同じ構造に陥っているからです。

『いかに偉大な誠実さでも、時の歩みには無力だ。何一つ、誰一人、甦らせられない。それでも、誠実さしか解決はない』(ゴダール)
 
自分は「物語」が好きです。こういう「物語」が好きです。よく書き込まれているかどうかまで判別の広がる気持ちはありませんが。。素材集めの趣味性や洗練度も良いのですが、どちらかといえばぶつぶついいながら考えたり、つくったりする方が好きなのです。

抽出イベント

Posted: 2024.10.12 Category: ブログ

10月10日(木)に美濃加茂市にあるSANWA KAIHATSUさんのイベントスペースをお借りして抽出イベントを行いました☕️

参加者さんの中には普段からコーヒーを淹れている方もいれば、たまにコーヒーを淹れる方など…様々でしたがハンドドリップ式の淹れ方で同じコーヒー豆の種類でも淹れ方によって味が変わること、淹れている時の注意点などに気をつけてコーヒーを淹れていました!
そしてコーヒーを淹れ終わる度にそれぞれのコーヒーを飲み比べて感想や意見交流、質疑応答をしながら楽しく学びました!

抽出レクチャーや抽出イベントは出張での開催も可能です!
美味しいコーヒーを淹れるコツなど一緒に学びませんか?
ご連絡やお問い合わせはカフェ・アダチの公式LINE、InstagramのDMまたはお電話(0575-23-0539)にて承ります(*^^*)

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