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取り消しへの強制

Posted: 2024.04.29 Category: ブログ

取り消しへの強制イメージ1

店主です。

自分でも知らないうちに自然な流れのようなものにのって、某ポッドキャストの番組に出演することになり、そうこうしているうちに受け取ったテーマが「自分らしさ」ということだったみたいなので----もっとも不意を突かれるような題目だったということもあったので----またぞろうろたえて岐阜市神田町の珈琲屋の店主に泣きそうな顔をしながら落ち着けというようなことを言われていたのですが、そういう気持ちとは別のところで、わたしはいくつかのメッセージのやりとりのあいだにハタと手が止まり、そういえばこういう種類のことに関して、いつかどこかで何かを読んだことがあるなぁ、と思いながら記憶をたよりに本を読み返していました。「自分らしさ」で言われる「自分」というものが、「比喩」らしいのにそれが切断できないこと、そしてそれよりもっと手前にある意味強制と意味取り消しへの強制の均衡について、いくつかのことを思ったり、思い出したりしていたのです。

『比喩と比喩本来の意味と想定されているものをつなぎ合わせる「代替の連鎖」が、常に切断可能であるとは限らない。そうした連鎖は、真偽を確かめられない仮構的な推論に支えられているからである。観念の場合、それらが言語外的な諸実態を指示する名前=名詞なのか、それとも単なる言語の幻影(フィクション)なのかを決定することは不可能である。同時に、こうした問題を中吊りのままにしておくことも不可能である。意味への強制と意味取消しへの強制は、決して相殺し合うことがないからである。こうした性質上、言語はみずからが何かに関わっているのか否かを決して見極めることはできない』(『読むことのアレゴリー』)

これは『第二論文』についての考察です。かくいうわたしも、「自分らしさ」なるものを問われたとき、最初に想到したのがルソーのことばでした。「自由とは、やりたいことをやれることではなく、やりたくないことをやらなくてよいことだ」とかいう、あのことばです。そういうものが自分らしさなのでしょうか? 

ルソーがものを書くことについて、「私が世界について抱いている表象を、私が他者に伝えようとする表象に合致させること」(アラン・グロリシャール)としていたことは、この比喩と意味の困難を見極めつつ、かつその限界にまで突き当たっていたことであるようにわたしには見えます。それは、本当に「限界」です。

もうひとつ、ついこのあいだ(といっても二ヶ月くらいは前のことだと思うけれども)、わたしのお店にふらりとあらわれた人が、「自分はそれでもフレームを探す」と言い残して、その場を去って行ったことを思い出しました。わたしはそのとき、「意味への強制と意味取消しへの強制は、決して相殺し合うことがない」(ポール・ド・マン)ということばを、痛切に思い出す出来事の手前にいたのです。だから、それはもはやそれぞれの責任だとか、そういうふうに言えるかもしれないよなとくちびるを噛みながら思っていたところで、気配を感じて窓の外を見ると、ある人が笑いながら手を振っています。

わたしはドアを開けるのですが、顔を出したその人が渡してくれたのは、遠方から持ち帰りのおみやげでした。ふっくらと焼かれたコーヒー豆。裏返してそれを焼いた人の名前を見て少し、口元が緩みました。

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