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「哲学」的な言及

Posted: 2020.03.19 Category: ブログ Comment: (0)

「哲学」的な言及イメージ1

店主です。


私の文章をたまに校正してくれる女性が、私がコーヒーについて書いているのは、哲学について書いているのだと話したのを聞いて、ふたつの事を考えました。ひとつは、かつて自分はどこかで「コーヒーと哲学」なる演目を見た記憶を持っているという事。それに対してものすごく思いを込めていたような気持ちもしますが、これはもしかしたら記憶違いかもしれません。そしてもうひとつの内容は、かなりそれに近い時期に、ひとはなぜ岐路にたったときに自分の意志とは別の、何か違うものに動かされるようにして道を選ぶのかを、近しい人と話した事です。


私がコーヒーについて「哲学」的な事を書いているのかどうか、そのことは自分ではよくわかりません。ただ、自分の読んでいる本が、哲学の範疇において捉えられるものが多い事はたしかだと思います。自分の意志とは違うものに動かされるようにして道を選ぶ、という意味では、おそらく私自身もそうでした。私は大学生の頃(という時期が果たして正確に存在したかどうかは謎ですが)、なぜか哲学をやろうとしました。それは事実なのです。しかし、それは哲学が好きだからそうしたのではないと思います。いまだに哲学が何たるかもよくわかりません。そういう問いの向かう先に実態があるものではないという以前に、哲学は私の興味の対象ではなかったし、いまもそうなのです。


ただ、ジャック・デリダは読んでいました。夥しい数の修辞についてはよくわかりませんでしたが、痕についての比喩がとても印象深く、それこそ何か、刻まれるように心に残ったのです。私は十代の半ば頃から二十代を通して、ほとんどずっと痕について考えていたようなものでした。人に傷がつく、ということについて。しかしじっさいには痕跡(trace)について考えていたのだと意識が変わったとき、思考がデリダの言っていた事とおぼろげながら重なったような気がしました。しかし、ここまでくると、わかったということとわからなかったということの違いも、はっきりいってよくわからないものです。


興味の対象であったかどうかもわからず、いまだにそれが何たるかよくわからないという意味では、私はコーヒーも同じようなものだと捉えています。途中でやめてしまう可能性もありますが、やめようがやめまいが、私はコーヒーというものが(私にとってなのか他人にとってなのかわかりませんが)何であったかのか、きっと死ぬまでわからないと思います。


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