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ずっと考えていたのに想到しなかったこと

Posted: 2020.12.25 Category: ブログ Comment: (0)

ずっと考えていたのに想到しなかったことイメージ1

店主です。

ポール・ヴァレリーの『テスト氏』(小林秀雄訳ではない)を読み返して、いつくかのことを考えました。これは実在する人物のものではなく、(それこそボルヘス的な)仮構された人物の評伝ですが、おそろしくリアリティがあるもので、ずいぶん昔に妙な印象があって、ずっと読み返したいと思っていたものです。

実際に読み返してみると、ずっと考えていたのに想到しなかったことがいくつかありました。

本の内容は「テスト氏」という(中年)男性が、「文芸ばかりでなく、ほとんどすべての哲学も。言語にせよ、社会にせよ、認識にせよ、芸術作品にせよ、その他何であるにせよ」(ヴァレリー)、いわゆる「世に出ている」すべての創作物に対して、誰よりも優れた認識を持ったまま「世に出ることなく」死んで行こうとする物語です。それはこういう理由からです。

『どんな大人物にもひとつのあやまちの汚点がしみついている。権威があると見られているどんな精神でも、まず最初に、おのれを人に知らせるという過誤をおかしている。世間からもらう酒手と引換えに、彼は、自分を人眼につかせるために必要な時間を与え、自分を人手に委ねて自分とは無関係な満足をでっちあげることに精神を使い果たすのである。あげくのはては、栄光のためにぶざまに右往左往することを、おのれを独自のものと感ずるよろこびと比すに至るのだ』(ポール・ヴァレリー『テスト氏』)

わたしは東京にいたころ、程度の差こそあれ、こういう種類の人たちとばかりいた気がします。ずっと、一緒にいた気がします。そして、さらに程度の差を問わなければ、これはヴァレリー本人のことでもあると思っています。「文芸ばかりでなく、ほとんどすべての哲学も。言語にせよ、社会にせよ、認識にせよ、芸術作品にせよ、その他何であるにせよ」(ヴァレリー)、認識を極めることを至上とし、だからこそ「何ひとつ打ち明けずに死んでゆく」。そういう人物を、彼がデビュー作(レオナルド・ダ・ヴィンチ論はわたしの中ではデビュー作ではない)で書いたことは、象徴的なことです。文字通り、途中まで、ヴァレリーはそういう人生を歩んでいました。

『つまり、もっとも強力な頭脳、もっとも鋭敏な発明家、思想をもっとも正確に認識する人々とは、人に知られることのない、おのれを出し惜しむ人々、何ひとつ打ち明けずに死んでゆく人々であるはずだ』(『テスト氏』)

しかし、これは本当にそうなのでしょうか。ヴァレリーは少なくとも、この作品の20年後に(中年になり)『若きパルク』を「世に出し」ました。「おのれを独自のものと感ずるよろこび」は、彼にあったのでしょうか。

しかし、こういう問いは不遜だとわたしは思います。「違う」と思います。このことを誰かに言いたくてしょうがないのですが、こういう「認識」は「打ち明けずに死んでゆく」のが正しいのでしょうか。

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