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コーヒーとアレゴリー

Posted: 2022.12.27 Category: ブログ

コーヒーとアレゴリーイメージ1

店主です。

ちかごろあった出来事というふうにいっていいのか、(年の暮れも暮れだというのに)、いくつかの場所から想像もしていなかった身分照会があり、ふってわいたように訪れた出来事に上下左右とタコ殴りにされていました。だんだんと遠のいていく意識の中、おぼろげながら「なんてこった」、と思いましたが、しかしよく考えてみると(自分の)人生(の縮図)自体がそういうものなので、こういうことはあまり動揺するに値しない出来事なのかもしれません。それにわたしは、もともとそそのかされたり受け身だったりすることが、それほど嫌いなタイプの人間ではありません。むしろ圧倒的ななにかに圧倒されたりするなどということは、どちらかといえば好きなタイプの人間です。(しかし)目の前の事実にされるがままのうちにあって、かすかに聞こえてくるこういうことばは、見逃せませんでした。たとえば、かすかに聞こえてくる「わたしはコーヒーがわかっている」だとか「わたしはコーヒーがすき」だとかいうことばは、薄い意識からもこぼれていきませんでした。好悪のことで言えば、わたしはこういうことばたちが、どちらかといえばあまり好きではありません。好きではないというレベルですらないかもしれません。そしてどうしてそう思うのか、そのことについてぼんやりと、ほとんど考えるふうでもなく考えてみるのです。

これらのことばは、いくつかの角度から考えられる問題です。そして、いくつかの答えを用意することの出来る問題です。(最初にそれはことわっておかなければいけません)。「わたしはコーヒーがわかっている」だとか「わたしはコーヒーがすき」だとかいうことば。。たとえばわたしは、「コーヒー」ということばと同じくらいわけのわからない、あるいはまともに見ることのできない「商売」というものについて考えてみます。商売には、だいたいいつも、(物事が)「わかっている」だとか「すき」だとかいう概念になじめないなにかがあります。「すき」だとか「わかっている」というのは、「商売」というものと、そのことばの喚起するイメージとは、どこか交わらない概念です。実際、「すき」だとか「わかっている」ということは、そのひとを商売的に救うことの保証にならないという事実は、現実にありふれています。このことは、(人によっては)ほとんどもうあんまりだとか口にするしかないような形であらわれていることもあるわけです。しかし、ふたたび好悪のことだけで言えば、わたしは「わかっている」だとか「すき」だとかいうよりも、コーヒーに対して、(あるいはコーヒーに関して)、本当は「実験している」だとか「研究している」だとかいうことばのほうがはるかに、好ましさとは違うものを感じます。というか、好ましさとは違うものを感じる、とかいうレベルの話ではないのかもしれません。(自家焙煎)コーヒーと商売について、もし先人たちに知見があるとすれば、わたしはだいたい三つくらいだと思います。だいたい、こういう三つで合っていると思います。ひとつめは田口護氏の、「焙煎技術に関する相談の八割は、売り上げを倍に伸ばせば解決する」、というもの。ふたつめは石脇智広氏の、「自己満足と顧客満足は別物」、というもの。みっつめは『私的珈琲論序説』の著者の、「何かに拘泥しているケチくさい人間の作るコーヒーなど欲しくない」、というもの。だいたいこの三つで合っていると思います。そしてこれらの正しさは、論理そのものではなく、現実があらわしているところがあります。

サム・ウォルトンは「経営について考えるな。商品について考えろ」と言いました。このことばのおそろしい含蓄よりも、わたしはたとえばこういう物事の捉え方が直感的に反転し、しかも圧倒的であることの方に凄みを感じます。言いようのないすごみを感じます。「経営について考えるな。商品について考えろ」というのは、「商品について考えるな。経営について考えろ」というのと同じであり、しかもこれらは入れ替わりの意味に瑕疵はなく、相互作用的なものです。じつに相互作用的なものなのです。このあたりの、「物事が直感的に入れ替わり、それが成立する(作用する)」(アレゴリー)というのは、一般と特殊をこえたところで、どこか「コーヒー的」です。非常になにか「コーヒー」なのです。入れ替わりということでいえば、コーヒー的なもののあらわれとして言われたりなどする、「善」と「悪」だとか、「光」と「影」だとか言ったほうがわかりやすいかもしれません。もちろん、ここでは特殊性と一般性の問題は薄ぼんやりとするので、結局わたしが問題にしたいのはアレゴリーではなく、「アレゴリカルななにか」、あるいは、たんに形容詞的ななにかかもしれません。そして形容詞のことで言えば、(相変わらず)「コーヒー」ということばを形容詞にしている危険性は残ります。しかし、わたしにとってこれらはやはり「コーヒー」です。この「入れ替わり」(シェリング)の関係(あるいは感覚)は、非常になにか「コーヒー」的なのです。

わたしはコーヒーをめぐる関係だったり、認識のあたりだったり、「なにかのすべ」(ゴダール)だったりに面白さを感じるとしたら、このあたりのところに感じます。たとえば、自分はコーヒーが嫌いなのですが、この「嫌い」というのは限りなく「全肯定に近い全否定」です。そしてそれらは同時に入れ替わり、限りなく「全否定に近い全肯定」でもあるのです。これらのことは、それ以外のどういうふうにも言えない、ただそういうふうにしか言えないものです。この「A」is「B」には決してならないなにか、「A」,「B」にしかならないなにか(ドゥルーズ)、「A」,「B」が直感的な入れ替わりを見せるなにか(シェリング)こそ、かろうじて、本当にかろうじて、自分は「コーヒー」とかいうもののなにか(の一部)だと思うのです。

しかし、それもこれもどうということはありません。「コーヒーとは」、という言い方・考え方は(ほとんどすべて)好ましくないものに思えるので、もしわたしの言っていることがそのような色を帯びはじめていたら、それも結局大したことではありません。というか、最初から大したことはありません。もともとコーヒーは、あまり大したものではないのです。

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